第一話 ラナンキュラス

東京にも綺麗な星空が見える場所があってね。つけられた地名をそのまま使うのは野暮だから、僕は「星見ヶ丘」って呼んでる。子どもっぽい?  確かに、そうかもね。

もう一度見せてあげたい、星見ヶ丘の夜空を。ある仲間はね、降り注がんばかりの星々に圧倒されて、しばらく言葉を失っていたよ。本当に、見せてあげたいなぁ、君に。それで、君がどんな顔をするのか、見てみたいな。決して笑ったりはしないよ。

ただ、星々を見上げる君の瞳を見てみたい。それだけなんだ。

***

「はー、まだ水曜日かぁ。週末まで長いなぁー」

山岡佳恵はパソコンに向かってため息をついた。

「でも明後日はプレミアムフライデーじゃない?」

隣の席の先輩、宇部真奈美はカルテをめくりながら声をかける。佳恵はため息を重ねてぼやいた。

「ウチみたいな弱小センターにプレミアムフライデーなんて無縁ですよ。第一、金曜日の午後三時なんて、相談者が一番駆け込む時間帯じゃないですか」

「確かにそうね」

佳恵は席を立つと、軽くストレッチしてから、奥の席に向かって、

「ねー、所長。ですよね?」

チクリとそう声をかけた。

少しの沈黙の後、所長と呼ばれた男性がやや気まずそうに、口を開いた。

「あのね。ウチだって慈善事業じゃないの。ね、山岡さんも宇部さんも優秀だからわかるでしょ?」

つまり、このセンターの財政状況を、という意味だろう。真奈美はすかさず、

「わかってますよ、穴があくほど、給与明細見てますから」

そう言い返した。

「ハートセンターラナンキュラス」。東京の西のほうにこぢんまりとある、カウンセリングルームを提供する小さな事業所だ。所長を務める北野修介は女性陣に負けじと、

「思春期の人も青年期の人も、確かにここのところ増えてきてるけど、包括的なケアが必要だとか言われて、結局、大手のセンターに持っていかれちゃうでしょ」

業績を棒グラフにした紙を見せながらプレゼンを展開する。

「これは危機だ。自分たちには何が足りないと思う?」

北野の問いに、

「お金」(佳恵)
「肌の潤い」(真奈美)

即答する二人。北野は肩をガクッと落として、「そうじゃなくて」とコホン、とわざとらしく咳払いをした。

「提案なんだけど……」

「なんですか、CMでも打つんですか? お金もないのに」

真奈美は冷たく突き放す。だが北野は、まんざらでもない様子なのである。

「近い。ズバリ、営業だよ。アウトリーチするんだ。ラナンキュラスの魅力を、必要としていそうな場所や人へ出向いてアピールするんだ。こんなところで待ってるだけじゃダメなんだよ。受け身じゃなくて、能動的にクライエントをゲット!」

佳恵と真奈美は顔を見合わせた。

「なんていうか……」

「ちょっと、ねぇ。どうかと思いますよ」

二人のつれない態度にも、北野はくじけない。

「いいかい。自分たち専門家ってのは、ややもするとお高くとまりがちだ。それじゃダメなんだよ。謙虚に、朗らかな営業スマイルだって時に必要なんだ!」

「……」

「……気持ちはわかるけど……」

「というわけで。早速、明日から営業、行ってもらうからね。まずは山岡さん」

「えっ!?」

「若い者には旅をさせるのが、ラナンキュラスの方針だからね」

「初めて聞きましたよ……」

所長の無茶振りにより、果たして翌日、佳恵はとある病院のロビーにいた。この地域に多く点在する精神科病院である。街中から明らかに離れた立地で、よく言えば自然に囲まれた、はっきり言えば世間から隔絶された立地である。到着するまでにバスを二本継いだ。この乗り継ぎにも20分以上の時間を潰さなければならなかった。

アポイントメントの時間の前なのに、すでに佳恵は疲れていた。

「あの、ご連絡差し上げました、『ハートセンターラナンキュラス』臨床心理士の山岡と申します」

「あ、はいはい」

当の佳恵も戸惑っていたが、病院のソーシャルワーカーも若干面倒そうに佳恵に応対した。

「見学といっても、患者さんたちのプライバシーがありますから」

「すみません」

「あと、病院にはすでにカウンセラーはいますし」

何をしにきたのだと言わんばかりの態度だ。高圧的なソーシャルワーカーに対して、ひよっこカウンセラーの佳恵はすっかり怖気づいてしまった。

「あの、チラシを置くだけでいいんです。それだけで、ええ」

「そうですか。じゃあ、預かりますよ」

「あ、はい。お願いします」

もしも佳恵が営業職なら、間違いなく失格だ。しかし専門外のことを強いられて、佳恵はかなり嫌気がさしていたので、正直どうでもいいと思い、あっけなくその場を後にした。

「ふー」

病棟の中庭に設えられたベンチに腰掛け、長く息を吐く。カウンセラーだって人間だ。いくらストレスマネジメントを学んだからといって、みんながみんな、それに長けているわけではない。ましてや佳恵のような若僧なら尚更だ。

見上げれば、流線状の雲が青い空を泳いでいる。雲には、悩みはないんだろうな。ぽっかりと浮かぶばかりで。いいなぁ、あぁ。

帰ったらなんて報告しよう。所長、怒るかな。いや、ガッカリするだろうな。

「……」

ふいに佳恵は背後に違和感を覚え、振り返った。するとそこに、ジーパンにTシャツといったラフないでたちの青年が立って、こちらを見ている。

佳恵が話しかけるより早く、

「君、新入り?」

「えっ」

青年は佳恵をまっすぐ見ながら、こんなことを伝えてきた。

「ダメだよ。早く戻りな。もうすぐ作業療法が始まるよ」

どうやら、佳恵を入院患者と勘違いしているようだ。

「えっと……」

ようやく目を合わせた佳恵は、しかし瞬間、全身の血の気が引いて行くのを感じた。

「――!」

青年は気にせずに続ける。

「看護師に見つかったら面倒だから。目をつけられたらもっと厄介なことになる」

「あ、え、えっと」

「急いだ方がいいよ」

「……す、すみませんっ」

佳恵は駆け出し、そこから逃げるように去ってしまった。青年は首をひねり、つまらなそうに佳恵の後ろ姿を見やるだけだった。

(え、なんで、どうして? どうして、「あの人」が、あそこにいるの……?)