虫歯の国のアリス

やせ我慢を決め込んでいたけど、日増しに高まっていく歯の痛みに、芦花ありす(16歳、花の女子高生)は嫌々ながらついにその日、歯科医院のドアを叩いた。
『ハートデンタルクリニック』という、街はずれにある小さなクリニックである。外観はまるで洋館で、二月だというのに白い薔薇が咲いている。
ホームページで確認したところ、院長が女性であることがここへ来た決め手だった。年頃の娘が男性に口の中をあれこれされるのは抵抗があったからだ。それに、ありすは生まれて今まで虫歯知らずだったので、歯医者のお世話になったこともなかった。だから、少し、いやかなりの不安を抱いていた。

先客はいなかった。ありすは誰もいない受付に「すみません」と声をかけた。するとモグラ叩きのモグラの要領で突然受付嬢が現れたので、ありすは「わっ」と驚きの声をあげた。受付嬢はニカニカと笑いながら、
「今日はどうされました?」
「えっと、奥歯が痛いんです。たぶん、虫歯じやないかなと。あ、保険証……」
「それは結構ですよ、ウチじゃ意味ないですから」
「え?」
「では、問診票にご記入ください。あと、こちらをお渡ししますね」
手渡されたのは、クリップボードに挟まれた問診票と、クッキーだった。包装紙を見ると、なんとロータス社製である。
(うわー! これめっちゃ美味しいやつじゃん!)
ありすはしかし、すぐに自分の置かれている状況を思い出し、
(はー、今ムリなんだった)
肩を落として問診票を書き始めた。だか、すぐにその手は止まった。設問を見たありすの目が点になる。

まず、名前や住所を書く欄がない。問診票はこう始まっている。
⑴ 最近一番笑ったことは何ですか?
「???」
⑵今までで一番感動した映画は?
⑶好きな紅茶の種類は?
⑷白うさぎはなぜ虫歯になった?
⑸白い薔薇を赤くする最善の方法は?

ありすはすっかり混乱して、受付に「すみません」と声をかけたが、受付嬢の姿はない。代わりに現れたのは、白衣に大きな帽子を被った青年くらいの男性だった。
「やぁ、どうしたんだい」
「あ、あの、すみません、これ、意味がよく分からなくて……」
「分からない? それは嘘だね! 嘘ってのはよくない。物事がうまく進みすぎるからね。君、正直に書きたまえよ。書けないわけないんだから」
よくしゃべる青年だ。ありすがあぜんとするのにも気にしないで、まだしゃべり続ける。
「ヒントがほしいのかい? そりゃ、僕だってほしいさ。万有引力なら、孤独の反対語のこと!  宇宙って縮小の一途か拡大一辺倒って学説は、まったくパラドキシカルで素敵だよね、嫌になるよ」
「あの……」
「あ、じゃあ僕はあっちで治療中の白うさぎを放置してるから、じゃあね!」
しゃべるだけしゃべって、青年は治療室へ去っていった。

困った。このままじゃ治療を受けられない。ありすがオロオロしていると、
「まだかしら?」
背後から艶のある声がした。ありすが振り向くと、そこには白衣を着て悠然と脚を組みソファに座っている美しい女性がいた。赤いエナメルの靴が存在を主張している。彼女はやや威圧的な口調で、
「早くその問診票に記入してちょうだい。クッキーが泣いてるわよ」
「はい?」
ありすは手の中のクッキーを見るが、別段泣いている様子はない。当たり前だ。女性はなおも続ける。
「なんでクッキーは焼かれると思う?」
「え?」
「食べられるためよ。ただそれだけのため。そのたった一つの役目まで、あなたはクッキーから奪うの? 酷いことするのね」
「そ、そういうわけじゃなくて、食べたくても食べられないんです。虫歯が痛くて」
白衣の女性、ハートデンタルクリニックの院長はわざとらしく長くため息をついた。
「治してあげてもいいけど、ちゃんと問診票に記入してもらわないと困るわ」
「でも、これ……」
「『でも』も何もないわよ。自分に聞けばわかることでしょう。あなた、ちゃんと自分のことわかってる?」
「え……」
ありすは歯の痛みをこらえながら、固唾を飲んだ。

最近一番笑ったこと?
一番感動した映画?
好きな紅茶?

(……なんでだろう、こんな質問にも答えられないほど、私は自分のことをちゃんと見てなかったのかな)

ありすは目を閉じて、ふっと息を吐いた。

最近一番笑ったのは、学校でバレンタインデーにアサコからもらった友チョコが本命用だったことかな。アサコの慌てっぷりがかわいかった。

一番感動した映画は、英語の授業で観た「ショーシャンクの空に」だな。友情ってすごいなって、こころから思ったっけ。

好きな紅茶は、特にないというかそんなに詳しくないのだけれど、アッサムだったらミルクを入れるのが好きだ。アイスならアールグレイが、好き。

⑶まで書いてみると、不思議なことに⑷も⑸もペンが進んだ。

白うさぎはバレンタインに配りそびれたチョコを一人で食べてしまったのだ。だから虫歯になった。さながら罰を受けているのだ。

白い薔薇を赤くする最善の方法。それはきっと、いや絶対、ペンキなどではなく、白い薔薇に、恋をさせること。

ありすは問診票を院長に手渡した。
「院長」
「なに?」
「白い薔薇たちのこと、許してあげてください。彼女たちに必要なのは自由です」
先ほどまで余裕顔だった院長の表情が、記入された問診票を見て一変した。
「……なんですって、あの娘たちを解放しろ、とでも?」
「はい。これから私は自分のことを見つめ直します。だから、院長もそうなさってはいかがでしょうか」
「ずいぶんな口の利き方ね」
「問診票は書きました。治療してください」
院長は声を上げて笑った。
「生意気なお嬢さん! いいでしょう、すぐに終わるわよ」
てっきり治療台に連れて行かれるのかと思えば、その場で院長は流麗な手つきでありすの左頬に触れた。すると、痛みが嘘のように消えたのだ。
「わぁ……すごい!」
感激するありすの様子に、院長は意外そうな顔をした。
「怖くないの?」
ありすは首を横に振り、
「怖いだなんて、とんでもないです。最高です!」
その返答に、院長も満足げだ。しかしありすはすぐにハッとして、
「あの、治療費は、これ、保険効くんですか?」
財布を気にし始めたのだが、院長は首を横に振った。
「お金なんていらないわ。白い薔薇たちにも自由をあげましょう。その代わり……」
「その代わり?」
「あなた、私のお茶飲み友達になってちょうだい。アッサムにはミルクを、夏になったらアールグレイを用意するから。そのクッキーだって、いくらでもあるわよ」
ありすは痛みが取れた以上の歓喜でもって、
「はい!」
と笑顔で頷いた。
そうだ、友達ができたときの嬉しさをしばらく忘れていた。虫歯になるのも、そう悪いことではないのかもしれない。