第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛けたまま一編の詩をよどみなく朗読し始めた。

並木の梢が深く息を吸って、

空は高く高く、それを見ていた。

日の照る砂地に落ちていた硝子を、

歩み来た旅人は周章てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、

金魚や娘の口の中を清くする。

飛んで来るあの飛行機には、

昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、

私は嘗て陥落した海のことを

その浪のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊や上肢の運動や、

下級官吏の赤靴のことや、

山沿いの道を乗手もなく行く

自転車のことを語ろうと思う。

「中也の『逝く夏の歌』ですね」

彼が語り終えるやいなや、美奈子はそう答えた。彼は目を細めて風に頬を預けつつ、「さすが、雪は聡明だね」と美奈子に微笑みかける。しかし、それに対して美奈子は凛として言葉を投げ返した。

「私はユキじゃなくて、美奈子です」

「名前とは、そもそも『意味』を成すと思うかい」

「どうでしょうね」

彼は声を上げて笑った。美奈子はまっすぐに彼を見つめている。彼はこちらを試すように冷たい視線を突き刺してくるのだが、それでも、美奈子は怯まなかった。それどころか退く理由がまるで見つからなかった。

私は、今さっきまで、あなたの体温を感じていたんだ。

美奈子と彼は少しの間、沈黙をもって対峙した。二人の間に割り込むのは、蝉たちの喚声ばかりである。美奈子は、渇き切った喉をどうにか潤そうと一度だけ唾を飲み込み、彼にこう切り返した。

「じゃあ、『雪の賦』は?」

すると彼は一瞬だけこちらを射るような視線を送ったのち目を閉じて、やはり余裕すら感じさせる口調で朗々と、中也の詩を口からこぼしはじめた。

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾の頃にも降った……

幾多々々の孤児の手は、そのためにかじかんで、

都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

ロシアの田舎の別荘の、矢来の彼方に見る雪は、

うんざりする程永遠で、雪の降る日は高貴の夫人も、

ちっとは愚痴でもあろうと思われ……

雪が降るとこのわたくしには、

人生がかなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

彼の朗読を吟味していた美奈子は、真剣な表情で一度だけうなずいた。

「幾多々々の孤児の『手』は、ですか」

「雪、これは君の詩だ。俺が一言一句間違えるわけないだろう」

彼はおもむろに立ち上がると、美奈子に軽やかな足取りで歩み寄り、彼女の流れる髪をひとすくいする。それでも美奈子は気持ちを固まらせることなく、彼の挙動と言動をじっと待った。

彼はどこまでも深い悲しみを隠すことなく、まるで中也の詩の続きを紡ぐように「約束したよね」と前置きしたのち、こう告げた。

「俺と君は、必ず結ばれるって」

***

「恵美さんを疑いたいわけじゃないけど、その話は本当なの?」

診察室でボールペンを走らせながら木内が問うと、岸本はうなだれて首を横に振った。

「嘘だったらどんなにかいいかと思う。けれど、現実は現実なの」

「そっか」

木内はマグカップの中の冷えた緑茶を、喉を鳴らして飲み干した。

「ハリー・スタック・サリヴァンは『人間には対人関係の数だけ人格が存在しうる』と遺しているね」

「それが何か?」

「僕は患者さんたちの前では、どんなにありのあまでありたいと願ってもどこかで医師の人格を纏う。恵美さんの前では無防備なおじさんだ。奥多摩クッキーフォーチュンズのキャップをかぶれば、走攻守の鬼になる」

「自分で言うんだね」

「それって、なんでだと思う?」

「えっ」

木内はカラになったマグカップの底を見つめ、そこに息を吹きかけた。

「みんなそれぞれ、守りたいものがあるんだよ。それは間違いない。それが精神病者であれ、医師であれ、ソフトボールプレーヤーであれ、多重人格者であれ」

「……それは、看護師であれ、母親であれ、同じことね」

木内は午前の診察時間の終了を知らせる置時計の秒針が訥々と12時半を指したのと同時に、椅子から立ち上がった。

岸本はほとんど独り言のように、ぽつりと声を漏らした。

「いつかこんな日が来ると……思っていたわ。わかってたよ」

力なく壁にもたれかかる岸本の肩に、木内が優しく手を添える。

「それ、僕も同じ。いつまでも続くわけがないと思っていたし、続いちゃいけないんだってわかってた」

両手で顔を覆う岸本を、木内はどこまでもあたたかく抱きしめる。岸本が泣き始めるのに、ほとんど時間は要さなかった。そんな岸本の姿を見た木内がつらくないわけがない。

それでも、彼は岸本にこんな言葉をかけた。

「恵美さん。けじめって、つけるためにあるんだと僕は思うよ」

***

季節が何度巡り去っても、木内と岸本の胸に穿たれた深い傷を埋めるものなど何処にも存在しない。癒してはならない傷があるということを、この二人が苛烈な悲しみと共に身に刻んだのは、今から十数年前、木内がまだ都心の精神科単科の大きな病院で若くして医局長を務めていたときのことだ。

クリスマスが近いせいか、街全体がどこか浮き足立っていた、そんな時季の出来事。その時のことをつまびらかに語ることはしたくないし、できないとも二人は考えている。

命とはかくも儚く、どこまでも尊く、取り返しのつかない事象がこの世界には満ちていることを二人は理解せざるを得なかった。

いっとき、精神的に不安定になった岸本に、しかし木内は精神安定剤の類は処方しなかった。薬で緩和することは、亡き息子——秀一との思い出もぼやけさせてしまうと判断したからだ。

だが、個人がどんな事情を抱えていようと、世間の預かり知るところではない。そうした脈絡に血が通わなくなって久しいことは、弔事休暇が明けてまもなく、クリスマスイブに岸本に夜勤のシフトが回ってきたことでも証明されている。

精神科病棟には「精神科特例」といって医師と看護師の配置が他科の三分の一でよいとする悪しき決まりがある。そのせいで患者が劣悪な処遇に晒される可能性が高くなるのはもちろんのこと、病棟で働く職員の負担も恒常的に過重となっている。心身に不調を訴え、辞めていく者も続出することは想像に難くない。

開放病棟の看護師だった岸本は、その時の夜勤時、午前三時過ぎに不眠のためにナースステーションへやってきた女性患者に頓服薬を渡した。女性患者は小さく頭を下げ、「これで眠れそうです」と礼を述べて病室へ戻っていった。

あんな小さな錠剤一つで、本当に楽になれるのなら。そんな考えが頭をよぎった。

日勤を終えた木内が帰宅後、激務の後にも関わらずどうしてもその日眠れなかったのは、もしかしたら亡き息子が導いてくれたことなのかもしれない。今でこそ本人たちもそう思えるが、この時、木内は言いようのない悪寒と不安にかられ、ベッドに横になってもどうしても入眠することができなかった。気がつけば、自宅電話の受話器を上げ、岸本が夜勤中のはずである病棟の内線の電話番号を押していた。

電話に出たのは、岸本ではなく、彼女とペアを組んでいる若手の看護師だった。

「こんな時にすみません。もしかして岸本は今、仮眠中ですか?」

「えっと、その」

口ごもる看護師に対し、木内は反射的に唾を飲み込んだ。それはほとんど、勘としかいいようのないものであった。

「なにか、あったんですね」

「なんで、どうして、おわかりに?」

「なにが、あったんですか」

動揺していた看護師は、電話口の木内に気圧されてこんなことを口走った。

「当直の片岡先生が、応急処置はされましたが——」

その言葉を最後まで聞くことなく木内は電話を切り、寝巻きからジーパンとセーターに乱雑に着替え、リビングに放置されていたダウンを椅子から奪うようにして羽織り、岸本のもとへ急いだ。

馬鹿だな、なんて責めなんてしないよ。

そうだよね、そうだよね。

僕だって、そりゃあ死にたいさ。

終電はもうないので、木内はママチャリで夜道をひたすらに速度を上げて走った。こんな姿を大学や病院の同期が見たなら、とんだ無様だと笑いぐさとされたことだろう。けれど、そんなことは木内にとって既にどうでもいいことだった。

前かごには、秀一が乗っていたチャイルドシートがそのまま付いていた。まだどこかで、ひょっこり秀一が帰ってくる気がしてならなかった、好きなポケモンのイラストがうまく描けたと自慢げに、頬を赤くして誇らしげに。

君を守れない自尊心なら、そんなものはいらない。

軽すぎた。あるじを失ったチャイルドシートがクリスマス寒波に凍てつき、何度となく軋みを上げた。この時の木内には、それが秀一の泣き声に聞こえてしまって、だから真夜中の国道をママチャリで激走する木内の両目からは、止め処なく涙が溢れていた。物理的に拭えなかったし、拭いたくないと思った。

ごめんな。守ってやれなくて、ごめんなさい。

抗精神病薬は過剰摂取ではなくとも、思考の抑制や極端な高血糖と低血圧などをもたらし、当然ながら心臓はじめ内臓にも相当なダメージを与える。人によっては疾患そのものではなく、薬剤によってその後の生活に大きな支障を遺すケースも多いことは、あまり社会に認知されていないことではないだろうか。本来必要のない人が飲んでしまえば——たとえそれが苦しみからの逃避を望んでのことだとしても——さらなる苦しみの呼び水となることは間違いない。

意識を取り戻した岸本の視界に、こちらをじっと見守る木内のまだ涙の跡の残るふやけた笑顔が入ってきた。まだ抗精神病薬の副作用が抜けきれていないために明瞭に言葉を発することは叶わなかったが、岸本は懸命に唇を動かして、「ごめんなさい」と発声した。木内は首をゆっくりと横に振る。

「私……看護師失格だよね」

そんな岸本に対し、木内は精一杯強がってニヤリと笑いかけた。

「その理屈が通るんだったら、僕は君のパートナー失格だ」

木内がベッドに横たわったままの岸本の頬に手をあてると、岸本は声を必死に殺して嗚咽しはじめた。そんな岸本の姿に、木内はひどく胸を痛めた。

「泣きたい時くらい、思いっきり泣けばいいじゃない」

「……そんなことしたら、寝てる患者さんたちがびっくりしちゃう……」

木内の手が、今度は岸本の髪をくしゃりとなぜた。

「君は、本物のプロフェッショナルだ」

「……わかんない」

「でもさ、窮屈じゃない?」

木内は処置室の小さな窓から破片のように見える夜空を指さした。下弦の月は、半分しか確認することができない。

「あー、僕もめっちゃ叫びたい。あーとか、わーとか、なんでもいいからもう、あの月に向かって。それも満月がいいな。まんまるいのを拝みながら、うがーって叫びたい」

「なに、言ってるの」

岸本がようやく小さく笑ったのを見て、木内は意を決してこう切り出した。

「恵美さん。ここ、やめよっか」

「えっ」

木内は口笛でも吹くかのような軽妙な口調で、ずっと胸の内であたためてきた提案を岸本に伝えた。

「自然がいっぱいな場所でさ、ログハウスを建てるの。で、そこで小さなクリニックを開くのね。君は看護師長。できるだけ運動神経の良さそうなスタッフも何人か入れたいと思うんだ。クリニックの入口には恵美さんの好きな季節の花を植えよう」

「え、なに?」

「精鋭メンバーが必要なんだよね。僕の長年の夢の実現のためには」

「まさか……」

「チーム名は、恵美さん考えてよ」

木内と岸本は、おでことおでこをくっつけて、それから一緒に泣き出した。互いの涙を交わしても、互いの悲しみがほどかれることは決してない。それでも、二人はずっとそうしていた、そうしたかったから。もしもその宵、仕事中のサンタクロースがその光景を見ていたら、赤面していたかもしれない。

二人はその後揃って病院を退職した。院長には「この先もうお前に出世の余地はないぞ」と脅されたが、木内が「ちょうどいいです」と返したことを、実は岸本は知らない。

都心のマンションを引き払って奥多摩に移り住むにあたって、破格で売りに出されていたログハウスを買い取り、「奥多摩よつばクリニック」を開業しのは、それから半年後のことである。

***

良くも悪くも、昔から滝行や狐払いなどの民間療法が精神疾患の治療の一環として根付いていた土地柄であったためか、メンタルクリニック開業にあたって特段、地元住民などからの反対はなかった。それどころか、近隣(といっても車で20分は離れているが)の老人保健施設や福祉の作業所などから、開業祝いとして地元名産の野菜などをもらうこともあった。

挨拶とお礼を兼ねて岸本がクッキーやマフィンなどを焼いて訪問すると、それが非常においしいとまたたくまに評判となり、奥多摩よつばクリニックと地域との繋がりは、ポジティブかつしなやかな形で生まれることができた。それはもちろん、現在もなお力強く続いている。

開業当初のクリニックは、地域の高齢者、引きこもりや不登校の青少年などが集ってお茶とお菓子をつまみながらおしゃべりを楽しむサロンのようであった。わずか十床というベッド数は、二十を超えると医院ではなく病院とされてしまい手続き等が煩雑であるという理由もあったが、それよりは、利益よりも患者一人ひとりとじっくり真剣に向き合いたい、丁寧な処遇を提供したいとを考えたとき、木内と岸本が「限度」と感じた数なのである。

ある雨の六月、木内の大学時代のソフトボール仲間でその当時、警視庁捜査一課で刑事をしていた若宮が、突然クリニックを訪れた。真っ黒なジャージに身をくるんだ、一人の少年を連れて。