第十六話 慈愛の罠(二)邂逅

事件の一報を児童養護施設の職員から知らされた裕明はうつむいて、その職員に気づかれないよう、「やっぱり」とこぼした。宿直の男性職員は、裕明に深呼吸を勧めた。

「まず、落ち着くんだ。今回のことは、いずれ知ることになるから……。君がショックを受けるんじゃないかって迷ったけれど、でも、友達が亡くなったことを隠すのも違うかなって思って」

(友達……ともだち……)

(誰が?)

(本当に、死んじゃった。)

(なんてね。知ってたくせに。)

(知ってたくせに。)

「もう十時半になる。今日はもう寝ような。明日、必要だったら一緒に登校するから」

「金井さん、僕、お祈りしたい」

「お祈り?」

「うん。亡くなった人は、星になるから」

裕明のそんな上っ面の嘘を見抜けなかったのは、決してその職員が悪かったわけではない。実際、裕明は普段からよく読書を好み、中でも詩歌に詳しい印象があった。だから、「死んだ人は星になる」などと言い出してもそれほど違和感はなかったし、むしろ心の繊細な子どもとして普段から気にかけていたほどだ。

「裕明、あいにく今夜は雨だよ」

「悲しいから空が泣いているんだよ。その涙に、少しだけ触れたいんだ」

裕明の澄んだ瞳に懇願されては、職員はそれを拒むことはできない。

「わかった。10分で戻ってくるんだよ」

「ありがとう」

10分後、裕明が宿直室に戻ることはなかった。

暗がりの道を、濡れそぼった少年が虚ろな表情を浮かべながら歩いても、家路を急ぐ人々の関心は引かなかった。それが却って、彼にはちょうど良かった。

何が起きても、他人事。他人事。皆が己の道を生き急ぐことだけを考えていて、すぐそばに傷だらけの人が息苦しさを覚えてうずくまっていても、無関心の仮面をつけて行きすぎるだけだ。

そもそも、どうせ誰も理解なんてできないことなのだ。通りすがる車のヘッドライトが彼を一瞬だけ照らして次々に通り去っていく。その顔を濡らしていたのは、雨だけではなかった。

その夜の南大沢警察署は、悪質な飲酒運転の取り締まり対応に追われたものの、取り立てて大きな事件も起こらずに一日の業務を終えようとしていた。

加えてその年は長梅雨ということもあり、軽微な物損事故を起こす車も多発していた。

南大沢は警視庁の管轄とはいえ、八王子市南部に位置する比較的閑静な土地に警察署を構えている。

今日も明日も、大きな事件や事故は起きない。

何が起きたところで、所詮は他人事なのだ。この街に暮らす人の多くは、そうした意識に疑義を唱える余地も持たず、日々を送っている。

しかし、「非日常」という亡霊は、夕立のように突如として立ち現れるのだ。

制服姿の裕明が、傘もささずにびしょ濡れのまま、南大沢署の玄関に姿を見せたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。

警備にあたっていた警察官が、不審に思って裕明に声をかける。

「君。こんな時間にどうしたんだ」

裕明は俯いたまま、こぶしをギュッと握って、か細い声でこう呟いた。

「僕は……しました」

「えっ?」

「人を、殺しました」

怪訝そうな顔をする警察官。しかし、その不審さよりも裕明の体が雨に震えていることが気にかかったようで、裕明に署内に入るよう促した。ところが、頑として裕明は中へ入ろうとしない。

「風邪を引くぞ。中で話を聞くから、入りなさい」

「お願いです、僕を死刑にしてください」

「馬鹿なことを言わないでくれ。大人をからかうもんじゃない」

「僕が殺したんです。僕が」

「大人をからかう暇があったら、よく寝てちゃんと勉強しなさい」

裕明は唇をくっと噛んだ。

「今日は、『3人』ですよね」

「えっ?」

「八王子市内の今日の交通事故の死亡者数です」

「今日は死亡者ゼロだよ」

「当たってたら、僕を死刑にしてくれますか」

「傘とタオルぐらい貸してあげるから、中に入りなさい。家はどこ?」

雨足が一瞬だけ強まったその刹那、警察官の胸元の無線に、一件の通信が入った。

『都道158号小山乞田線にて、普通車同士の正面衝突事故発生。複数の怪我人が出た模様』

「その人たち、全員死にます」

裕明が告げると、警察官の顔が引きつった。

「何だって……?」

「僕を、死刑にしてくれますか」

警察官は訝しみ、裕明の全身を注意深く観察した。短めに切りそろえられた黒髪、白地にアルファベットを変形させたようなエンブレムがワンポイントになっているTシャツ、ジーンズに履きこまれたスニーカー。特段変わった格好ではなかったし、一見、裕明はどこにでもいるような学生に見えた。

「君、どこから来たの。親御さんが心配するだろう」

その言葉に、裕明は表情を微塵も変えることなく、まるで天気の話でもするかのようにこう答えた。

「家族は、いません」

「えっ?」

「地獄へ堕ちました」

「何だって……?」

「でも妹は、天使になったんです。僕の目の前で」

「君、さっきから何を言って——」

警察官がそう問いかけようとしたところへ、割り込んできた無線の音声が、無情な現実を報せた。

『こちら都道158号小山乞田線。3名が心肺停止。えー、3名が心肺停止』

「――……!?」

『現在、救急隊員による蘇生を——』

無線のレシーバから、ノイズ混じりにうなるサイレンと激しい怒号と悲鳴とが漏れ聞こえてくる。

裕明が拳をぎゅっと握って警察官の顔をじっと見ると、その視線に警察官は思わず一歩引いて問いかけた。

「君は、一体……?」

「ただの、中学生です」

雨が裕明の全身を容赦なく冷やしていく。警官は一呼吸おいてから、観念したようにこう応じた。

「……死刑にするとかしないとかはね、警察官が決められるものじゃないんだ。とにかく、中へ入りなさい。話を聞こう」

警察官が裕明を誘導しようと、警棒に光を点灯させる。その「赤色」は、すぐさま強烈に裕明の認識する世界を支配した。

(やぁ、人殺し!)

突然、裕明の全身がガタガタと震えだした。それは体が冷え切ってしまったことだけが原因ではなかった。

(誰も信じちゃくれないよ)

(名無しの戯れが泣いているよ)

(やめて。やめて。私は嫌よ)

(殺す以外の選択肢はあった?)

(ある日(ある日♪)街の中(街の中♪)人殺しに(人殺しに♪)であった(であった♪)星散る観光地~♪ 人殺しにであ~った~♪)

(いやあああああああああああああああああああああああああああああ)

「ああ……あ……ッ?」

両腕で頭を抱えて崩れ落ちる裕明。泥と雨に汚れるその様は、飽きられて打ち捨てられた哀れな人形のようだった。あまりに異様なその光景にたじろいだ警察官だったが、すぐに駆け寄って裕明を介抱しようとした。

ところが、中学生とは思えない力で、裕明は突然その警察官の腕を掴んだ。

「めんどくせーなぁ」

明らかに口調の変わった裕明に対し、警察官は反射的に無線のスイッチをオンにした。

「こちらエントランス。至急の応答求む」

次に裕明が意識を取り戻したのは、都心から少し下町方面に位置する精神科病院の敷地内の、児童精神病棟の個室だった。彼の腕には点滴が繋がれており、頭が重いので思うように体を動かせない。眼球だけをキョロキョロと動かしていると、定時のバイタル計測にやってきた看護師が、裕明が意識を取り戻したことに気づいて「あっ」と声をあげた。

慌てた様子の看護師に呼ばれてやってきたのが、当時その病棟で病棟医長を務めていた木内であった。

「——ここは?」

力のない裕明の問いかけに、木内は優しく声かけをした。

「安心していい。病院だよ」

「病院……」

裕明は周囲を見渡した。無機質な色ばかりが支配する空間。——自分は、ついに、いや、ようやく、こんなところへ連れてこられたのか。

裕明はくたびれた白衣を着た木内の目をじっと見つめて、乞い願った。

「僕を、解剖してください」

「えっ?」

「僕みたいな人間は、もうそれくらいしか道がないんです。脳でも心臓でもなんでも、誰かの役に立てるなら、こんな体、早く切り刻んでください」

「……まだ少し、混乱しているみたいだね。まだ点滴は終わってないから、それが済んだら一緒に散歩にでも行こうか」

裕明はじっと木内の瞳を見つめた。木内が微笑んでそっと裕明の横たわるベッドの掛け布団に触れようとすると、裕明は体をびくりと震わせた。

「早く……早く、解剖してください……」

「僕はそんなことはしないよ」

裕明の黒眼に映る木内が柔らかく微笑む。床頭台の置き時計が午後4時を示すと、上部に付属しているひよこのキャラクターが4回だけ点滅した。

「解剖、してくれないんですか」

「うん、しない」

「どうしてですか?」

「君は、生きているからだよ」

それが、裕明と木内の邂逅であった。

第十七話 慈愛の罠(三)願い