Tちゃんの漂白感

闇が忌むべきものだと誰が決めた
闇が私を愛してくれるなら
私は闇を愛したい

おはようございます、笹塚です。お、おおおお久しぶりです。。しばらく仕事の忙しさと体調不良で、なかなか書けずにおりました。Twitterではぽろぽろボヤいてたんですけどね。

やっぱり詩が書けなくて、これはアレだ、スランプというやつだ!と気づき(今更)、スランプを抜けられるまではのんびり日々のことを書き留める形でnoteに参加しようと、やっと気持ちがシフトチェンジしました。

冒頭の詩は、私が17歳の頃に現代文のノートに書きなぐったものです。最近、Twitterで「17歳の頃の感性を黒歴史として葬りたくない」といった旨のつぶやきをたくさん見かけて、確かにそうだなぁと、改めて感じました。

私は中学校でのいじめ被害の経験上、学校というものに対して今でも批判的ではありますが、これまであまり触れてこなかった高校時代について、昨日飛び込んできた嬉しいニュースとともに振り返ってみたいと思います。

私の母校は県立の、雰囲気の穏やかな高校でした。ルーズソックス全盛期、もちろん私もスカートを折り短くし、太い足をむりくり出してルーズソックスを履いていました。当時、ソックスを留めるためのグッズがあったのですが、それがスティックのりみたいだったので「じゃあアラビックヤマトでよくね?」と肌に工作用ののりをべたべたつけていたのもいい思い出です。

さて、私は今おかげさまで楽しく創作活動していますが(スランプ中だけど)、その原点はもしかしたら高校時代にあるのかもしれない、と思っています。

私は、もうはるか昔のことなんで書きますが、成績だけは学年トップでした。でも、授業はマトモに聞かないし、校則を破ってバイトするし、言葉遣いは悪いし、教師からしたらかなり嫌な生徒だったと思います。でも、その当時は本当に必死で、大人は基本的に自分を守ってくれないから、自分の身は自分で守るしかないと思い込んでいました。

部活は軽音部と美術部、たまに友達に誘われて漫画研究部に顔を出してました。軽音部では大して弾けもしないギターをかき鳴らし、学園祭などで一応ボーカルとして歌ってました。(えっと、病気の影響かはわかりませんが、今はもう、その頃のようには歌えなくなってしまいました)中学時代では内気で引っ込み思案ないじめられっ子だった人間が、環境が変われば変われるものだなぁと実感したものです。

美術部では静物画が苦手で、よく友人の顔を描いていました。あと、よくわからない内面に渦巻いていたものをひたすら絵の具でキャンバスに広げていました。作品の一つか美術の先生の目に留まり、本人に無許可でしばらく市の大きな会館に勝手に飾られていて、それが発覚した時の私の怒りっぷりは皆さんのご想像にお任せします。

あと、漫画研究部なんですが、友達が部長をしていて、ヘルプで会誌の表紙を描いたことがあったのです。そこで初めて、漫画を描くということがものすごく難しい作業であると痛感しました。普段何気なく読んでいたものが、いざ作り手にまわるとあんなに大変だったとは。でも、とても楽しかったです。

バイトは地元のパン屋でした。そこでいろいろ経験させてもらって、自分でお金を稼ぐことの尊さをひしひしと感じました。特に使うあてもなかったので、どんどん貯金されていき、後にそのバイト代は大学受験時の受験料に消えていくことになるのですが…。

それで、先に触れた「嬉しいニュース」というのが、高校時代に私と同じく群れるのが嫌いで一匹狼的だった女の子がいたのですが、その子がなんと、双子を出産したという「お手紙」が届いたのです!しかも、私の自宅ではなく、職場に。

その子は不思議な子で、当時流行っていたいわゆる「ガングロヤマンバギャル」だったのですが、えこひいきする教師たちのことも群れてわめく女子たちのこともギャースカ騒ぐ男子たちのことも「うぜ」と吐き捨てていたのに、なせが私とは仲良くしてくれました。

ある時、その子(Tちゃんとします)がこう言いました。(本当に昔のことなので、かなりうろ覚えではありますが)

「笹塚さぁ、あんた勉強できんだから私に教えてよ」
「は? どうしたの、なんか、らしくないじゃん」
「なんつーの? 将来の夢的なやつができたから、勉強しないとやべーなって」
「ふーん。いいけど、じゃあ何か今度おごってよ」
「バーカ。そんなぬるいことするかよ。あんたを原宿につれてってやんよ」
「原宿??」
「そ。笹塚、行ったことなさそうだから」
「おお、クレープ食べたい!」
「素人の発想。まじウケる」
「うっさい!」

そんなこんなで、その子と放課後、近くのモスバーガーに寄ってTちゃんの特訓をする日々が続きました。

その後、Tちゃんは無事に志望校に合格し、ガングロヤマンバギャルから、人づてに聞いた話ですが、なんとその後白衣の天使となったのです。ものすごい漂白感……。

かたや私は、記念受験した千代田区紀尾井町にある某J大学にうっかり合格してしまったものの、受験したのが社会福祉学部ではなかったこと、私立大学で学費が高かったこともあり、母校となる大学への進学を決めました。

ところが、ここでまた一悶着。学年主任をはじめ教師たちが、高校の名誉のためにもJ大学へ行けと迫ってきてのです。私はそれを全力で跳ね除けました。もう教師なんて本当に信じられない。そう思ってました。

でも、ただ一人、信頼できる先生がいました。定年間近の現代文の女性教師でした。その先生は昔に大声で生徒を怒鳴りすぎて二度と大声が出せなくなったという、なかなかロックな女性でした。その先生がこう言いました。

「笹塚、自分の進路は自分で決めな。合格ってのは可能性と選択肢を増やしたに過ぎないんだから、自分で覚悟した道を拓きなさい」

私は、自分の選んだ道に後悔はしていません。あの時、決断できて心から良かったと思っています。

そして高校卒業後は、忙しさもあってなんとなくTちゃんとも疎遠になり、私は病気にもなり、携帯番号もメアドも変わってしまったから、連絡手段がお互いなかったのです。

ところが、Tちゃんが、私が今の職場にいることを突き止めてくれて(ちょいと怖いが、まぁ仕事では本名(旧姓)と顔出ししてるから、見つけやすかったのかも)、手紙で双子ちゃん誕生をお知らせしてくれました。手紙にはLINEのIDが載っていたので、速攻で友達登録しましたよ。

あ、そういえばまだ原宿に連れてってもらってないじゃん! 年齢的にまだ行けるかな、もうアウトかな……。ラフォーレとかではしゃいでいいかな、タピオカドリンク飲んでもいいかな。

ああ、大人になったTちゃん、ママになったTちゃんに会いたい! そこでお互いにきっと言うんだ、

「変わんねーな」って。

そんなこんなで、高校時代はある意味でとても荒れていたけど、楽しい思い出も多いというお話でした。