つづれ織り

今どき、パソコンはおろかスマートフォンも携帯電話も持ち込み禁止の病棟に、私の大切な人が入院している。

彼がいるのは精神科の閉鎖病棟だ。通信機器の禁止は外部の刺激を遮断するためという理由らしいが、本当は病棟の内情を隠したいからではないのか、と疑心暗鬼になってしまう。

彼がいる病院のウェブサイトを見てみた。派手なフラッシュを多用したトップページには、

「豊かな自然に囲まれ、患者さまに安らぎと癒しを提供します」

の文字が掲げられている。

要するに、街から隔絶された遥か山中にあるということだろう。

通信手段は手紙だけ。しかも、それも本人に渡る前に看護師などが本人の許可も得ずに中身を見ることもある。

「本人を刺激しないよう、内容の確認が必要だから」。

そんな理由がまかり通るなら、あの場所では何が起きてもおかしくない。

キレイに整ったウェブサイトがあけすけに嘘をついているように感じられた。

彼からの手紙には、看護師の「検閲」をパスしたからだろう、無難な言葉が並んでいた。
閉鎖病棟では鋭利なものは禁止されているため、先の丸まったクレパスでこう書かれていた。

たくさんの人に支えられて
すごく今、幸せです。
けっていてきなのは、
てんしに会えたこと。
くるしいときに助けてくれます。
だれもかれもここではきっと
さびしさから逃れることができます。
いつか、貴女に伝わりますように。

筆跡は薬の副作用のせいか、若干震えているように見える。それでも、現実と妄想の区別も難しかった彼がこんな穏やかな文章を書くようになったことには、少しだけホッとする。

いっとき、彼は幻覚の世界の住人だった。それでも、私は信じていた。きっと戻ってきてくれると、頑なに信じていた。だから、今こうして彼の文字に触れられることが嬉しかった。

私は彼が一生懸命に書いてくれた一文字ひと文字を指でたどった。

さびしさから逃れることができます。
いつか、貴女に伝わりますように。

「。」?

…………?

———なぜ、気づかなかった?

彼はとっくに悲鳴をあげていた。

私は跳ね上がる鼓動が導くまま、便箋を取り出してペンを握った。無我夢中だった。

かなしいときには
なんでもいいから
らくな姿勢をとって。
ずっと前を見ながら
たかなる気持ちを大切に。
すずしい季節になりましたね。
けさは何を食べましたか。
るすが多くてごめんなさい。

それをポストに投函してから、返事が来るのが一日千秋だった。

私への返信はすぐに届いた。想いを乗せた便箋は、確かに彼に渡ったのだ。

東京都八王子市◯◯町3-14-201

片桐 響子 様

宛名の文字もやはり震えている。しかし、確かに彼の筆跡だった。私は喉元に少しの渇きを感じながら、封筒を開けた。

ありったけ振り絞る声ほど
りゆうもなく怖いものはありません。
がんばっても無理です。
とかいでは星が見えないでしょう、
うらやむのは自由です。

それから、私と彼の不思議な文通はしばらく続いた。

言葉遊びと秘密のやりとりが、私と彼を繋いでいた。

手紙を重ねるうちに、想いもまた重なっていくようだった。

つづれ織りのように、言葉たちが彩りを成していった。

いつからか、手紙が届くのが楽しみになっていた。ポストを覗くのが日課になった。彼からの手紙が、待ち遠しかった。

やがて、秋も深まった頃、こんな手紙が届いた。

すずしいを通り越して寒くなり
きれいな星空が毎日見えます。
だれかに見せてあげたいです。
けしきは相変わらずですが
どうしようもなく寂しいのは
もうすぐ冬がくるということ。
うっかりしているうちに秋も終わりです。
だらだら生活には気をつけていたので
めずらしく気分がいいです。

私はすぐに返事を書いた。考えるより先に手が動いていた。

あかりのある方に歩いて
いしだたみの上を軽やかに
しろい雲を追いかけて
てと手をつないで
るるると歌いましょう

切手は貼らなかった。私はコートのポケットに手紙を入れると、自転車に飛び乗り、晩秋の高尾山方面へと漕ぎ出した。

バスならもう終わっているだろう。日が傾けば、寒さも増してくる。

届けるのだ。彼に、このメッセージを。

どれくらい走っただろう。気がつくと、涙が一筋頬を伝っていた。暗号なんかじゃなくて、まっすぐ伝えるべきだったのに、それができない自分の無力さにだろうか。

泣くだなんて、それこそ私の嫌いな「欺瞞」かもしれない。

それでも構わない。
今はただ、伝えたい。

自転車がギイギイ鳴って、寒風を切って山道を走っていく。40分ほどして、ようやく看板が見えてきた。頼りない街灯にうっすら照らされた、「第一記念病院」の文字。

これだけ頑張れば来られた距離なのに、どうして今まで逢いに来なかったのだろう。それはきっと、自分の弱さの所為だ。そう自分を責めてしまう。彼が閉鎖病棟にいるという「現実」を、今まで直視できなかったのだ。

正門にいた警備員には、邪険に扱われた。開放病棟の面会時間すら過ぎており、病棟にはもう鍵が掛けられていて、ましてや閉鎖病棟に部外者は入れないとのことだった。しかし、今ではなければならなかった。だから、藁にもすがる思いでその警備員に、

「C棟の、伊藤賢治さんへ、これを渡してください」

と懇願した。手紙を渡してくれるまで、ここから帰らないとも言い切った。

その場で待つことを条件に、警備員はC病棟に向かってくれた。風が段々と強くなってきて、私はかじかむ手を必死に吐息で温めた。

ふと、見上げるとそこには美しい星空が広がっていた。自分の家の方ではなかなか見られない、壮大な光景だった。

「豊かな自然に囲まれ、患者さまに安らぎと癒しを提供します」。

彼は毎日、この空を見ているのだろうか。

それとも、病棟の天井を見上げていたのだろうか。

1分が10分に、10分が1時間にも感じられた。体が芯まで冷えきった頃、警備員が戻ってきた。

手紙を渡したところ、彼はすぐに返事を書いてくれたという。警備員はそれを私に手渡すと、面倒くさそうに去って行った。

私はこみ上げる想いを必死に堪えながら、ルーズリーフを開いた。

確かに彼の文字で、こう書いてあった。

ありがとう
いみもなく
しにたくなったら
てと手を繋いだ日々に
るるると歌います

私は初めて、声を出して泣いた。すぐ近くに、こんなにも近くにいるというのに、逢えないなんて。想いをまっすぐ、伝えられないなんて。

それでも、彼は伝えてくれた。懸命に、伝えてくれた。そのことに、ただ今は、泣いていいと思った。

私は信じて待っている。
彼が「戻って」きてくれる、その時を。
綺麗事すら、今では二人の交情の証だ。

星空があまりに綺麗な夜、確かに互いに伝わったものがあるという「現実」を、彼は認識してくれただろうか。きっとそうに違いない。

自転車を転がして、帰りは下り坂。夜風を切って心地よい。

重ねた文の数だけ、私は彼を信じられるだろう。

私と彼を繋ぐもの。それは、暗号で記す色彩と二人の想いで綾なす、手紙のつづれ織り。