呼吸していた頃の思い出

貴方との思い出も、永遠には成りえないから、約束はしないよ。貴方は私を忘れて生きていくでしょう。さっさと忘れて、のびのびと生きていくのでしょう。私は、何よりもそれを望みます。

過日に貴方が残した白も、私が溶かした赤も、時間と一緒にすべて流れていくだけだから。

「思い出、か。随分と感傷的な表現だね」

幸せになりたい。慾を満たしたい。認められたい。それだけだったのに。それは貴方とて同じことだったはずなのに。だって同じ人間ですもの。だのに、貴方は『幸せ』をこう表現するのね。

「つまるところ、ドーパミンを垂れ流したい。セロトニンに依存したい。アドレナリンを噴出させたい。エンドルフィンに浸りたい。ロイシン=エンケファリンを味わいたい。それらを君はすべて叶えたでしょう」

寄せては返す、欲求の波。私は今、その中に独りで佇んでいる。雨のち雨のち雨のち、雨。私の中の驟雨は、いつになっても止まない。繰り返すだけなのだと私は嘆くが、

「同じ夜など二度と巡らないよ」

警告のように貴方は言う。すべてを見通したかのような透き通った表情で。その茶色い瞳は、一体今何を考え、誰を想い、何のために瞬くのだろう。

「明鏡止水の刻が君には訪れた。それを幸せと呼ばずに何と呼ぶの?」

私は、ただ貴方との偕老同穴を願った。それすらおこがましいというのなら、いっそ私を忘れてください。貴方は生きていくのだから。これからも貴方の表現するところの『幸せ』を満たしながら。

「今さら君に生きろ、とは言わない。無理して生きることはない。『生きる』という行為は、君にはあまり向かないかもしれないからね。だから、せめて心を閉ざすといい。どんな自己啓発も哲学も心理学も倫理も、君の一助にはならないだろう。なぜなら君には圧倒的に『信じる勇気』が欠落しているからだ」

貴方が間違ったことを言ったことはない。絶対というものがこの世にあるのならば、それは死と貴方の言葉だ。しかし、悔しいとは思わない。私は貴方の信奉者ではない。貴方の言葉など、私のこころに降る雨に打ち消される程度のものだ。

ただ、一理あるとは思う。無理して生きることはない。恐らく、私は生きることに向いていない。

「そろそろ時間だ」

貴方はこれ見よがしに腕時計に目をやって言う。

「せめて、君に穏やかな最期が訪れるよう、祈っているよ」

私は生きることに向いていない。

貴方は背を向けた。そのまま、人ごみに紛れて消えた。

――これが、私が呼吸をしていた頃の最も美しい思い出です。美化して美化して美化して美化して、こうして綴ったらこうなりました。私の朽ちた肺を満たすのは、滅んだ臓を打つのは、腐りゆく脳を駆け巡るのは、こんなにも美しい、思い出です。

思い出だけで人は生きてはいけません。酸素、養分、そして『幸せ』が必要です。幸せとは、あの人の言葉を借りるのならば『人を信じられること』なのでしょう。

私はこの先も誰かを信じることなんて、できそうにありません。つまり、幸せにはなれません。

実にいい思い出です。