消しゴムがほしい

どうも、待てないらしい。心の中で「さっさとしろ」と舌打ちする割に直接伝える勇気がないから、SNSに書き込んで鬱憤を晴らすらしい。

今日、ランチで車いすの友達ととある定食屋に行った。会計時、その子が私に車いすに掛けているポーチから財布を取ってとお願いした。私がポーチから財布を取り出して、その子に渡した。その子が自分の財布を開けて千円札を出そうとしていたら、背後から聞こえよがしにサラリーマンの咳払いと、「なんで払わせるのかしら」のお声。脊髄反射でガン飛ばしそうになったけど、堪えた私すごい。

お急ぎなら、そう声をかけてほしかった。「さっさとしろ」を忖度する能力は私には備わっていないため、(なんか安っぽい大人たちだな)という残念な感想を抱くに留まった。店を出た後に、当の友達が「なんか、ごめん」と呟いたので、私はいつものように「なにがぁ?」とヘラヘラした。

早いこと、速いこと、定型であること、「みんなやってること」は正義らしい。そこからはみ出ることは劣っていること、悪いこと、改めるべきことらしい。

結構、びっくりする。と同時に、「マジョリティ」とやらから、13歳にして早々にドロップアウトできて本当によかったとしみじみ感じる日々だ。

[前へ倣え]が苦手だった。背が低かった小学校低学年の頃は一番前で腰に手をあてるポーズを取らされたけど、「私は誰に倣えばいいの?」と質問したら、教師にはあからさまにめんどくさそうな表情をされた。ここにこうして書くくらいなのだから、子どもなりに傷ついたのだろう。

(倣え。倣え。はみ出すな。それはとても良くないことで、はみ出したら通知表に、お前は落伍者として「総叩きにして良し」と書いてやるぞ。)

実際、コミュニティから排除されて好き放題、心身ともにズタボロにされた。インターネットも今ほど普及していなかった時代に、なんとまあ徹底した暴力だったことか。

けれどここで書きたいのは、不登校・ひきこもり経験の話ではない。

はみ出したからこそ見えている世界がある。それこそ[前へ倣え]という命令形になんの疑義も挟めなかった思考停止系ピーポーがいわゆるマジョリティなら、私は今の社会の中でマイノリティであるという自覚と、そこに誇りを持っている。

やれダイバーシティだ多様性だ、差異の承認だの言われ出して久しい。最近の行政は「心のバリアフリー」なんて言葉を好んで使う。あまりに言葉だけがイメージで独り歩きしていることを憂慮した私は、ある会議で官僚さんに問うてみた。

「みなさんがフリーにしたい『心』の定義って、そもそもなんなんですか」

途端に顔を見合わせる皆さん。いつかどこかで見た「面倒そうな」表情を上っ面の笑顔で覆い(これでも元演劇人なんで、猿芝居ならすぐに見抜くよごめん)、以下の返答。

「持ち帰って検討します」

→ここでは答えられないから忘れた頃に忘れてね。って意味です。

定義の定まらないもの相手に、私たちは何を議論していたんだろう。私の半日を返せ。その日は9月なのにやたらと暑くて、庁舎の中のコーヒーショップでアイスコーヒーの大きいサイズを頼んだ。気分が悪くてガブ飲みしようと思ったけど、結局少し残した。ごめんなさい。

後日送られてきた議事録を見て、私は文字通りめまいを覚えた。私の質問のくだりがバッサリとカットされていた。

ずいぶんと、つまんないことするんだね。 

笑われないために笑う側にしがみつくその姿が既に哀れな件だけれど、そんなことどこにも教科書には載ってなかったからね、仕方ないよ、わからないのは、うん、仕方ない! (あー、だっせ。)

笑う側は常に観客なんだよ、決して主役にはなれない。「その他大勢」として責任を微塵も取らずにやり玉にあげる対象にばかり誠実さを要求する。

知ってた? 世界って平等なの。優しさには優しさが返ってくるし、毒には毒が巡ってくるし、誰かを貶せばそのぶん笑われるんだ。しかも、最終的には土に還るんだよ。地球ってみんなみんなの死骸の集合体なのかもね。綺麗。

ゆっくりなこと、工夫や配慮を要すること、非定型なこと。これらを否定するマジョリティは、どっぷりと[こうあるべきだ]エキスに脳が浸されているんだろうね。「洗脳」とはよく言ったものだ。

定型や無難さが推奨されるのに、「個性を大切にしよう」「障害者やマイノリティを理解しよう」ってその矛盾に、いつになったら気づくの? それとも気づいておきながら放置してるの? あっそう。(やっぱつまんねー)

そうだよね、みんなも、余裕、ないもんね。(素敵な言い訳ー)

さっさとしろ。

はみ出すな。

(笑われたくなかったら)前へ倣え。

うるさい。金太郎飴なリアクションなんてもうたくさんだよ。つまんない。少なくとも、私にとっては。

専門家とかいうマジョリティの勝ち組代表みたいな人たちからしたら、私のようなひとりの精神障害者(=彼ら彼女らからすればどこまでも支援の対象)が反論や意見や提案をすることは「生意気」とされ、下手すると「調子が悪いに違いない」とまで決めつけられこき下ろされる。

あーもー社会福祉学部なんて出るんじゃなかったー(下手打ったー)。元友達たちは軒並みソーシャルワーカーとなり、ことごとく私を評価したがり、分析したがり、私以上に私のことを知った顔をする。私はすこぶる優しいので、それをいちいち受け入れて許している。だって怒ったって「調子が悪い」とか言われるだけだから。このテンプレ感、ぞっとする。

もちろん、私が社会福祉士と精神保健福祉士の資格を持っているのは、彼ら彼女らに対するちっぽけで精一杯のアイロニーです。あーごめん、なんか私でも取れる程度の資格みたいだね、って。

ごめん(なんか謝ってばかりだな)、性格悪いよね、私。大丈夫、自覚はあるから!

苦しいの? そう。

自分たちで自分たちの首を絞めあっているみたいだけど、まだ苦しい理由がわからないかしら。

手放しで息ができないんだから、そりゃあ息苦しいでしょうね。

私は呼吸そのものを脅かされて久しいから、首を絞められながらでもきっと、歌を歌えるよ。何を歌おうか。嘘でもついてみようか?

皆さん、かっこいい☆ とか。

笑われることが平気になると、人を笑わなくなる。笑う人たちに気持ちばかりの哀れみさえ添えて、あとは堂々と自分の人生を歩いていける。

今さら、痛々しいことを恐れる私ではないから。

なんだ、強くなったわねー、と天国のばあちゃんたちがガッツポーズしているのがわかる。あ、もちろん妄想だけどね!

本当のこと、本質、誠実さ、愚直さが私の目の前には溢れている。外野に、ニヤニヤしてしか、偉ぶってでしか、プライドを保てないその他大勢の皆さま。お疲れさまです!

線引きがバカらしくなる社会であってほしい。健常者か障害者か、性的指向、学歴、資格、宗教、国籍、そういうものの境界線が消しゴムで気軽に消せるような。

「属性=人」だなんて、どこの教科書の何ページ目に書いてあったの?