第一話 檸檬

金曜の夜の新宿を、傘もささずに歩く彼は、数多のネオンを睨み返しながら歩いている。その後ろを、訥々とした足取りで私はついていくのだ。
新宿駅を出てはじめて、雨が強まってきたことを知った。濡れながら歩くのは少ししんどい。
「待ってよ」
彼はまったくそれを聞き入れない。ブルゾンのポケットを強く握りしめて歩を進める彼の目には、何が宿っているのだろうか。
それにしても、溢れんばかりの人、人、人。よくもまあこんなに人が集まるものだ。欲望の街、とか眠らない街、とか不夜城とか言われる所以がわかる気がした。決して嫌いではないけれど。
あぁ、ミュールで来るんじゃなかった。デートだなんて、浮ついた自分が恥ずかしかった。会うなり彼はただ、
「死ぬ前に試したいことがある」
と告げた。おろしたてのワンピースは、この瞬間に色彩を失った。

ややあって紀伊國屋書店を見つけると、ようやく立ち止まって彼は振り返った。
「見つけた」
私は半ばあきれて、
「スマホの地図で確認すれば済む話じゃないの」
そう言うのだが、彼はニコリともせず、
「このくたびれた足と目とで見つけることに意味があるんだよ」
そう言ってポケットから本当にくたびれた檸檬を取り出した。
私はいよいよ眉間にしわを寄せた。
「そんなもの、どうするの」
すると彼は突然、いたずらっぽく笑った。声を上げていたかは、この新宿の喧騒の中で確認することはできなかったが、確かに、笑った。
「ここの本棚に、これを置くんだ。誰にもバレないように」
そう彼は言う。私はすぐに合点がいった。
「もしかして、梶井基次郎気取り? そんなことのためにこんな中、わざわざ歩いたの」
「くだらないと思うかい」
「思う」
「じゃあ、賭けをしよう。これがもし本当に爆発したら、僕の勝ち。誰かに見つかって処分されたら君の勝ち」
私が勝つ以外の未来がまるで思い描けない。彼が手にしているのはどう見てもただの檸檬なのだ。
私は彼に言うべきことがある。否、たった今できた。伝えるべきか一瞬だけ迷ったが、彼に対して誠実でありたいと願う私は、ためらいを飲み込んで、彼に向かって断言した。
「梶井基次郎が檸檬を置いたのは、丸善だよ」
鳩が豆バズーカを食らうとは、まさにこのことなのだろう。私は目のやり場に困った。彼の表情を、どう表現したらいいのだろう。私の語彙では満たせないほど、言っては悪いが非常に『面白い』顔をしている。
追い討ちをかけるように私は言う。
「良かったら、丸善までスマホでナビろうか」
私は自分の容赦なさに驚いた。
「それとも、その檸檬の使い道でも考える? 居酒屋で唐揚げでも頼もうか?」
「……いや」
先程までどこか殺気立っていたのが嘘のようだ。街中で人違いをしたような気まずさを漂わせながら、彼はひらひらと左手を振った。
「出直してくる。白旗さ。今日は君の勝ち」
「全然嬉しくない」
彼は突然、紀伊國屋書店の中に走って入った。

敵前逃亡、か?

私は濡れそぼったスプリングコートの裾に触れた。これでは、きっと風邪を引くだろう。春風邪。美しくもなんともない。

死ぬ前に、試したいこと。
そんなもの、いくらでもあるよ、私にも。

私がため息をつくと、ふいに雨が遮られた。彼が傘を差し出していたのた。
「どうしたの、それ」
「買ってきた。ワンコインだったから」
「そう」

そうして帰りの京王線で二人、そろって小さくくしゃみをした。
「次こそは勝つからね」
「はいはい」
「僕がちゃんと逝けるまで、付き合ってもらうから」

こんな告白、アリなんでしょうか。

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