第一話 落丁

東京都の西の隅っこの街のはずれにある、とある本屋。真弓がこの本屋でのアルバイトを決めたのは、今月入学した大学と一人暮らしのアパートのちょうど中間という好立地に加えて、カフェが併設されているからだった。真弓は自他ともに認めるカフェ好き……と言いたいところだが、高校時代までを過ごした街には、残念ながらそれらしい店はほとんどなく、チェーン店のコーヒーショップか喫茶店くらいのものだった。カフェへの強い憧れが、真弓の背中を押したのだった。生まれて初めてのアルバイト。緊張しないわけがないが、それよりもワクワクが心の中で勝っていた。

「へぇ、八千代市出身かぁ。へぇ」

形ばかりの履歴書を読みながら、この本屋兼カフェ「アリスの栞」のマスター、中野義男は呟いた。真弓は差し出されたアイスコーヒーを一口飲んで緊張を紛らわそうとしていた。中野はあごひげを一度だけ撫でて、こう切り出した。

「確かあの辺は成田空港が近いから、海外旅行に便利だよね」
「ええ、まぁ。私は海外には行ったことはないですけど」
「そうなの? もったいないなぁ。今のうちだよ、海外。行くなら学生のうちがいい。ウチでたくさん稼いで、友達や彼氏と旅行に行くのもいいんじゃない?」

真弓は反射的に、エへへ、と笑った。

「彼氏なんて、いません」
「そうなの!?」
中野は両の手をあげて必要以上に驚いたように見えた。彼氏がいないって、そんなにびっくりしなくても、今どきじゃ別に珍しいことでもないだろうに。
中野は大きく頷いたかと思うと、親指をびしっと上げた。

「じゃあさ、今から卒業までに必ず彼氏を見つけること! それでウチで稼いだ給料で卒業旅行という名の婚前旅行に行くこと! これ、どう?」
「どう、って言われても……」
「決まり、ね。うん。今週の木曜日から来てもらえる?」

とりあえずは採用、ということだろう。

「ありがとうございます。あの……」

真弓は頭を下げてから、

「カレシと海外旅行に行けるくらい、お給料くれますか」

勝手に人生計画を立てられた仕返しとばかりにそう言うと、中野はハハハ、と笑った。

「頑張ってくれたら、ね。それにね、ウチで働くといろいろな『まかない』があるから、楽しみにしてて」
「まかないですか!?」

目を輝かせる真弓に、中野はニッと笑った。

「そう。いろいろな、ね」

この「いろいろ」が何を指しているのかも知らずに、勝手にパフェやケーキを空想していた真弓もまた上機嫌で、席を立ってぺこりと頭を下げた。

「よろしくお願いします!」
「こちらこそ」

中野は本屋スペースのレジに戻っていった。
ホッと胸を撫でおろした真弓の視界に、カフェスペースでヘッドフォンをしながら本を読んでいる青年の姿が入った。常連なのだろうか、とてもリラックスした様子で読書に没頭している。

誰だっけ、あの、仮面ライダーだったナントカって俳優に似ている、気がする。要するに、結構イケメンだ。若いお母さんに受けそうな感じの、しょうゆ顔。

「………」

真弓は俳優の名前を必死に思い出そうとして青年を相当じっと見ていたらしく、その視線に気づいた青年が、

「………」

真弓の方をちらりと見やった。ハッとした真弓は、ぽそりと「スミマセン」と言ったが、ヘッドフォンをしている青年に届くはずもない。慌てた真弓が挙動不審にしていると、青年の方から声をかけてきた。

「あの、この本なんですけど」
「へっ?」
「ページが落丁してるんです。取り替えてくれませんか」

青年が差し出したのは、ある海外の詩人の詩集だった。

「あの、すみませんが私は……」
「木曜日からここで働くんでしょ。だから、予行演習」
「へっ、聞いてたんですか」

青年はわざとらしく首を傾げた。

「だって、面接、丸聞こえでしたよ。そりゃ嫌でも聞こえる」
「え、そのヘッドフォンは……」
「ワイヤレス。充電式。電池切れ」
「え、じゃあさっきの『スミマセン』も?」
「『サーセン』にしか聞こえなかったけれど」
「スミマセン……」

真弓は気まずくなって、その場から逃げ出したい衝動をどうにかこらえながら、

「……はい、お取替えいたします」

本を受け取るや否や、緊張のあまり、
「マスター! 落丁、一丁!」

考えるより先にそう叫んでいた。レジの近くで中野は苦笑する。

「うちはラーメン屋じゃないよ」
「スミマセン!」

こうして、「アリスの栞」でのアルバイトが始まった真弓の、騒がしくて少し不思議な甘酸っぱい青春がスタートしたのだった。

第二話 ナポリタン