第九話 落下

真弓は階段を駆け下りると、中野に向かってこう言った。

「bookmakerのCDとかって、ありますか」

中野は背を向けたまま、

「あるよ。少し高いところにあるから、脚立を使わなきゃだけど」

そう返答したので、真弓はバックヤードから脚立を持ってきて、カチャカチャと組み立てた。

「洋書の棚の4段目だよ。届く?」

「あ、ハイ。たぶん届きます」

真弓が手を伸ばしたギリギリのところに、そのCDはあった。おそらく自主制作なのだろう、手作り感満載のジャケットには、桜の花びらが描かれた一枚の和紙風の栞が写っていた。

「栞……」

栞は英語で『bookmaker』だ。中野が声をかけてくる。

「CD、あったかい?」

「あ、ハイ」

脚立の上に座ったまま、真弓はそのジャケットに見入っている。

栞には、文字が並んでいた。それをじっと読んでいるのだ。

Even if the wind blows, the tears will not disappear.

Life is limited, so it makes sense.

Thank you for loving me.

Thank you for loving the world.

If I exhale from the thin lungs, you will smile.

「えっと……」

受験英語しか経験のなかった真弓には、すぐに意味は訳せなかったが、直感的に何か物悲しいイメージをいだいた。英語を指でなぞる。

「これ……なんだろう……」

「歌詞だよ」

突然、すぐ背後から声をかけられて真弓は「わ!」と驚いた。一階の天井から、彰がぶら下がっていたのだ。逆さまになっているので、当然髪の毛も逆立っている。

「彰さん、そのポジション、すっごい幽霊っぽいです」

「まぁ、幽霊だからね」

「この英詩も、彰さんが?」

それを聞かれて、彰は首を横に振った。

「君は風邪を引いたことはあるかい」

「へ?」

急に風向きの変わった質問に、真弓は戸惑い、首をちょこっと傾げた。

「そりゃあ、ありますよ。インフルエンザにもほぼ毎年かかります」

「そう。現代医学ってのは、すごいんだな」

「それは、どういう……」

言いかけた真弓はハッとした。彰の表情が、何よりも瞳が、憂いを帯びていたからだ。いや、憂い以上の、深い悲しみだろうか。

真弓はそれに見とれてしまった。それに気づいているのかいないのか、彰は独り言のように続ける。

「時代というのは、引き潮と満ち潮のようなものだ。決して安定せず、寄せては返す繰り返しに見えて、二度と戻らない。それと同じなんだ。だから、一瞬一瞬が尊いんだ」

「……」

「真弓、君はもっと『今』を大切にすべきだ」

彰の言葉に、真弓はさらにドキリとした。

(今、私の名前、呼んだ?)

「あの、彰さん――」

動揺した真弓の視界がぐらっと歪む。

「わぁっ」

そのままバランスを崩した真弓は、脚立から落ちてしまった。

物音を聞いた中野が驚いて駆けつける。

「大丈夫⁉︎ 真弓ちゃん」

「あ、いててててて……」

のそっと体を起こす真弓。

「だ、大丈夫です。ちょっと、その……」

「痛いか」

そう問うたのは、彰だ。真弓は思わずムッとした。

「そりゃあ、尻もちが痛くないと言ったら嘘になります」

「痛みは生きている証拠だよ。大切にするといい」

真弓はお尻をおさえながら脚立を支えに起き上がった。

「彰さん、ひどい!」

それは彰にとって意外な言葉だったらしい。彼は片眉を上げて反論する。

「なにがどう『ひどい』んだよ」

「助けてくれなかったでしょ」

「無茶苦茶言うなよ。俺がどうして脚立を支えられるというの」

「なんていうか、霊的な何かで! 助けてくれたってよかったじゃないですか!」

憤る真弓に、中野も戸惑っている。

「あの、真弓ちゃん……『霊的な何か』って、何?」

「あーもー、なんでもいいですっ」

真弓は脚立から落ちた痛みと恥ずかしさとで、投げやりになっているようだ。

「俺は心配しているんだよ、一応」

彰の言葉は、火に油だ。

「一応、ってなんですか一応って!」

すると彰はスルスルと天井から降りてきて、真弓の頬に触れる仕草をした。

「……大丈夫か」

すると真弓は落ち着かない様子でその手をのけようとする。

「どうしたの?」

中野が訝しがる。だが、真弓本人はそれ以上に困惑していた。

「な、なんでもないですっ」

この時、まだ真弓自身も自分の気持ちに全く気付いていなかったのだった。

第十話 義務