ゆく夏に穿つ

多重人格の青年・裕明と底知れぬ孤独に苦しむ少女・美奈子。心優しい人々と奥多摩の穏やかな自然に囲まれて、二人の時計が今、ゆっくりと動きはじめる。

posted on2019.10.2.

プロローグ 告白

その夜の南大沢警察署は、悪質な飲酒運転の取り締まり対応に追われたものの、取り立てて大きな事件も起こらずに一日の業務を終えようとしていた。 加えてその年は長梅雨ということもあり、軽微な物損事故を起こす車も多発していた。 南...
posted on2019.10.2.

第一話 心臓の形(一)遺言

……かつて愛した貴方へ。 私には一切の恐れるものがなくなり、失うものを失い果てて、ついに自由から逃れなくなりました。 すなわち、私が残滓であるということを、他でもない私自身が理解してしまい、この薄汚れた殻を破らざるを得な...
posted on2019.10.1.

第二話 心臓の形(二)口笛

彼は機械的な動きで銀のボウルの中のサクランボを一粒ずつ指でつまみ、隣に置かれた白い皿に移し替える。4秒間で一粒移すのが、だいたいの目安だ。呼吸をまったく乱すことなく、しかしどこか切迫した空気を醸し出しながら、「作業」は行...
posted on2019.10.1.

第三話 心臓の形(三)扉

高畑美奈子は「その日」も、自宅最寄りの中野駅からいつもと同じダイヤの多摩方面の中央線に乗り、乗り換えの立川駅のエキナカにあるベーカリー「キィニョン」でお気に入りの焼きカレーパンをゲットし、足早に青梅線を目指していた。青梅...
posted on2019.10.1.

第四話 心臓の形(四)幻影

「いやー、最後の一球は本当に惜しかった。絶対あれストライクゾーンだったでしょ。あの程度の当たりだったら、僕があと十歳若かったら余裕でキャッチできてた」 「ソフトボールがタイブレーカーじゃなかったら、絶対に逆転してたよね」...
posted on2019.10.1.

第五話 心臓の形(五)絵画

奥多摩よつばクリニックには、消毒液と汗の混ざったような病院独特臭いはまったくしない。それどころか、木造ならではの心地よさをそよ風が助けて、気持ちが安らぐような心地すらする。 美奈子はしばらくの間、入院病棟へと続く廊下の壁...
posted on2019.9.30.

第六話 心臓の形(六)可哀想

青年は美奈子のほうを一切見ることなく、ひたすら鏡の破片を集め続けている。その姿は月夜の浜辺で貝殻を集める寡黙な詩人のようだ。 美奈子が扉のそばで立ちつくしていると、青年は相変わらずうつむきがちに、こちらに話しかけてきた。...
posted on2019.9.29.

第七話 心臓の形(七)斜陽

青年は強引に美奈子の腕を引っ張り、獣のように鋭い眼光を彼女に突きつけた。美奈子の額の汗と血の気とが、一斉に引いていく。 「こんなところに、何をしにきた……」 先ほどまでの透明感のある声とは打って変わって、低いうめき声で青...
posted on2019.9.28.

第八話 過日の嘘(一)夕立

先ほどまでの眼光はどこへやら、青年はあどけない表情で自身の両腕を無邪気に美奈子に絡ませてくる。 「ねぇ、おねえちゃんは、ぼくのおともだち?」 「え……」 「あっ!」 青年は目を輝かせて、湿り気のある風の入ってきた中庭の方...
posted on2019.9.2.

第九話 過日の嘘(二)りんどう

何をもって何を「不幸」だとか「悲劇」などと「誰が」決めるのだろう。ある「ものさし」で測ろうとすれば、今、美奈子の目の前に広がっている光景は「異様」とされるのかもしれない。だが、木内にシャンプーを施されているその青年は目を...
posted on2019.8.3.

第十話 過日の嘘(三)怖い

「知らない場所って?」 知らない。知らないから、知らない。 「何が見えたの?」 海。それがひたすら目の前に広がっているんだ。僕はあの子の手をとって、その子も僕の手を握り返して、でも見つめあうわけじゃなくて、同じ夕陽をずっ...
posted on2019.7.1.

第十一話 過日の嘘(四)定規

岸本の気持ちを落ち着かせようと、木内は「深呼吸を」と彼女に促した。 「裕明に特段、おかしな様子はなかった?」 「野暮なこと言うのね」 「え?」 「『おかしい』って、まるでどこかに『おかしくない』って定規があるような言い方...
posted on2019.6.2.

第十二話 過日の嘘(五)カード

美奈子がいなくなったことに混乱した裕明が「白い部屋」を飛び出し、そのまま院内のあちこちを彷徨っていたのと時を同じくして、入院棟の夜勤を担当していた看護師たちがある異変に気づいていた。夕飯を配膳しようとしたところ、件の男性...
posted on2019.5.2.

第十三話 過日の嘘(六)声

カビはカビを生む。ホコリはホコリを呼ぶ。けれど、あなたはその原理に抗って、よく今日まで生きてきた。群れることなく日和ることなく、媚びることなく臆することなく、屈することなく生きてきた。だから私はもう、あなたを解放したい。...
posted on2019.4.11.

第十四話 過日の嘘(七)邪魔者

木内の口から「情報提供」として若宮に共有されたのは、高畑美奈子の家庭環境についてであった。 彼女の父親は大手の商社に勤めるサラリーマンであったが、長引く不況ゆえリストラの対象となり、マイホームのローンを抱えながらの転職活...
posted on2019.4.2.

第十五話 慈愛の罠(一)人殺し

木内が美奈子を待合ロビーへ招き入れ、あおいがウォーターサーバーの水を汲んだ紙コップを手渡すと、美奈子はそれを一気飲みした。開口一番、 「話をさせてください」 という美奈子の鬼気迫る雰囲気に一瞬だけ圧倒されつつも、木内は首...
posted on2019.3.2.

第十六話 慈愛の罠(二)邂逅

事件の一報を児童養護施設の職員から知らされた裕明はうつむいて、その職員に気づかれないよう、「やっぱり」とこぼした。宿直の男性職員は、裕明に深呼吸を勧めた。 「まず、落ち着くんだ。今回のことは、いずれ知ることになるから……...
posted on2019.2.2.

第十七話 慈愛の罠(三)願い

ひとしきり話を終えた裕明は、昂ぶった呼吸を整えるために、長めにため息をついた。 「そういうことなんです」 力なく笑ってみせる裕明に対し、美奈子はあっけらかんと右手を、再度高く上げた。 「はーい、先生!」 裕明の過去を聞い...
posted on2019.1.31.

第十八話 慈愛の罠(四)風

それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所ではあったが、それでも二人は、その空気に抗するごとく、不器用ながらも真剣に心を育てあった。 少女——雪は、ちらりと目が合うだけで、顔を赤らめ...
posted on2019.1.20.

第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙を擦り合わせたような...
posted on2018.12.1.

第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛けたまま一編の詩をよど...
posted on2018.11.13.

第二十一話 慈愛の罠(七)刃

「忘れ物だ」 開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた青年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。 「君は……」 若宮が若干あきれた表情で木内を見やる。 「『中途半端』は、お前の一番嫌いな言葉...
posted on2018.10.27.

二十二話 刹那の灯(一)血

その場に居合わせた女性看護師がすぐに美奈子に駆け寄り、三角巾として使っていたバンダナで美奈子の二の腕をきつく締めあげ、「大丈夫だよ」と声をかけた。それから先ず消毒しようと傷口から溢れる血を拭おうとするが、見た目以上に裂傷...