デコピン

川越まで日帰りで小旅行に行ってきた。自宅から車で一時間半も飛ばせば辿り着ける場所にあるので、思い立って小江戸散策を決めたのだ。昨日でお互い仕事納めだった自分たちへの、ちょっとしたご褒美のつもりだった。

川越散策には最高の天候で(少し風は冷たかったが)、メインストリートを歩くとさまざまな店舗が味わいある雰囲気で佇んでいて、私はすっかりはしゃいでパシャパシャ写真を撮っていた。そんな私を、夫は観察するように見ていた、ような気がする。

ランチは、偶然通りかかって発見した、オープンしたてのラーメン屋に入った。ここがまた絶品で、その名も「underground RAMEN」。スッキリしょうゆ味の奥深いスープが美味しかった。食べログにもまだ詳細は出ていなくて、しかしお客さんが途切れることのない、まさにundergroundなラーメン屋だった。

おなかを満たして、その後も街を散策した。午後になって日差しが暖かくなってきたので、手袋を外して手を繋いだ。夫の手がとても冷たかったので驚いた。冷え性だったっけ? と聞いたが、夫はそうかもね、と答えただけだった。

ぐるっと歩いて存分に小江戸の情緒を満喫した私たちは、歩き疲れたので一休みすることにした。この街にカフェが多いことに気づいた私のテンションは上がった。上機嫌でタブレットをいじって店を検索していた。やはり、その様子をどこか他人事のように眺めている夫の姿があった。

雑貨屋とカフェが併設された、とある店を見つけたのでお邪魔した。時刻は午後3時半を過ぎていた。アールグレイとダージリンを頼んだ。ホッと一息ついたところで、やっと私は切り出した。
「ねぇ、楽しい?」
私の言葉に、夫は少し驚いたようだった。私は構わず続ける。
「今朝にさ、急に私がここに来たいって言って。昨日までお互い仕事だったのに、疲れさせちゃったかな、って……」
「違うよ」
紅茶が運ばれてきた。夫は小さく首を横に振り、
「違う」
そう繰り返した。私は不可解な表情を浮かべた。
「だって、まぁくん、たまにすごく不安そうな顔するんだよ。アングララーメンのときも、あんなに美味しかったのに、ふさいだ顔しちゃって……」
「……」
カフェの客は私達だけで、貸し切り状態だった。カフェのマスターは、たぶん聞いてないフリをしてくれている。
「本当に、違うんだよ……」
夫は絞り出すような声で言った。
「じゃあ、なんで?」
「……怖かったんだ」
「怖い? 何が?」
「今年がもうすぐ終わる。年の瀬に、心琴と遊びに来て、美味いラーメン食べて、午後には美味い紅茶飲んで、本当に、こんなに平和でいいのかなって」
「なんで? 仕事納めはお互い昨日だったじゃん」
私がそう言うと、夫は堰を切ったように話しはじめた。
「そうじゃない。そっちじゃない。違うんだ。怖いんだよ、本当にこんなに穏やかで、平和で、そんな年末が過ごせるなんて、自分には本当はそんな資格ないってわかってるから、だから心琴には申し訳なくって、怖くて、怖くて……」
言葉を詰まらせた夫に、私は手加減なくデコピンした。
「痛い!」
「馬鹿者が」
「ハイ、僕はバカです、無知蒙昧です」
「本当だよ。何年一緒に年末を迎えてんのさ。これからだって、何十回と迎える予定なんだから、いちいちそんな理由で暗くなるなよ」
「だって」
「だって、じゃない。浸るな馬鹿者」
「心琴……」
夫の脳裏に蘇っているのは恐らく、閉鎖病棟へ連れて行かれ過ごした冷たい冬の日々ことなのだろう。その体験は、確実に夫の心に傷を遺している。しかし、それはもう過去の過去だ。今とこれからを一緒に生きる私達の足かせになど、させてたまるか。思い上がりかもしれないが、しかし私は本気でそう感じた。
「君ねぇ、わかってるのかい」
「え?」
私は、わざと眉間にしわを寄せてみせた。
「私が今幸せなのは、誰のせいだよ」
「……それは、その」
「今度浸ったら、二発お見舞いするからね」
「容赦ないな……」
おでこを押さえながら、夫はやっと笑った。

そして帰り道の途中で、このノートを書いている。実は夫の気持ちも、少しわかるのだ。今が幸せだと、それを失うのが怖くなる。だから、自分には幸せになる資格なんてないのだと思ってしまう。わかるからこそ、私は夫に伝えたかった。

幸せになるのに、資格などいらないと。
あなたはありのままの幸せを感じていいんだと。

いつもは違う職場でそれぞれ忙しく過ごす午後。だからこそ、今日のティータイムはお互いにとって特別な時間だったのかもしれない。そんな大切な日を、大切な人とあの街で過ごせたことに、心から感謝したいと思う。

運転席に座る夫の横顔が、行きよりも晴れ晴れとして見えたのは、私の気のせいだろうか。

2017年がもうすぐ終わる。いつか、あなたの囚われている痛みや苦しみにも、終止符が打たれますように。