最終章 誕生

決して、俺を忘れるな。

運命の日、あまりにも澄み切った夜空に、星々が瞬いている。太古の人々は、その配置に物語を与えて意味を紡いだ。誰もそれをただの化学反応だと切り捨てなかった。一種の浪漫などに准えて、愛や正義を謳ってきた。まるで何かに縋りつくように。孤独を星に擦り付けるように。
世界は、それを認識する世界の数だけ存在する。ということは、認識の外にいる者はその個の世界には存在しえないことになる。
星の光は遥か過去の光であるという。可視光は既に滅んだ星の残骸であることを知っている者が、どうして星空を求めようか。誰もがネオンに辟易して下を向いて歩く魔都市で、星の光は忘れられたか、それとも疎まれているのか。
今更、夢など見られないと、ビルに埋もれた人々は妬むのだろう、世界に否定された者たちの自由さを。と同時に、世界に否定された者たちは憎むのだ、愛を肯定された者たちの束縛を。
結局、どう足掻いても解体できない、孤独な素数「2」。
彼を救うか、あるいは奈落へ突き落すのか。いびつな舞台の首謀者は、果たして彼の世界にどのような変容をもたらすのであろうか。

彼の脳裏には未だに、あの影がちらついている。あの日言ってしまった『その一言』に囚われた彼の精神。
しかし彼は、彼女の死を以てはじめて生きることを始めた。
生きている。否、生きていく。彼のこの決意は、あまりにも多大な犠牲の上に成り立っている。彼は、それを自覚しなければならない。

向き合うこと。
逃げないこと。
傷つくこと。
強くなること。

これらは同義である。すなわち、彼にとって生きることとは戦うことだ。
呼吸をし、排泄をし、摂取をし、そこに在るだけでは「生きている」が「生きていく」とは到底言えない。少なくとも、今の彼の世界に認識されはしない。認識されないということは、存在しないということである。
愛を否定し、愛に否定され、認識を失い、自我を失い、罪すら剥ぎ取られた罪人。存在証明のはく奪が、彼にとって何よりの罰であっただろう。

今更、引き下がる場所などない。ということは、立ち位置がハッキリしているということだ。
彼は遂に、重く冷たい鉄の扉を開いた。
虚無にも似た、意味を包含しない深呼吸をしてから、その空間へと足を踏み入れる。
しかしどうだろう、彼を待っていたのはあまりにも緩やかに和んだ芳しい香りのする空間であった。場違いかと思うくらい、安らいだ雰囲気が漂っている。
それに飲まれてはいけない。彼は口元をぐっと引き締めると、待ち受けていた人物の目をしっかり見据えながら、ゆっくりと言った。
「お久しぶりです、Dr.」
彼の言葉に応じた黒い瞳が、ゆったりと細められた。
まるで時が止まったかのような空間。その中央で、穏やかな微笑みを浮かべている篠畑礼次郎。彼がすべての舞台の演出家であり、悪夢の首謀者なのだ。
葉山は跳ね上がりそうになる鼓動を必死で抑えながら、篠畑の言葉を待った。篠畑は、しばらくティーポットに興じていたのだが、焦らすようにゆっくりとした手つきで葉山を手招いた。そして、
「突然ですが」
聞く者のこころを癒すようなテノールを発した。
「君は誰かを愛していますか?」
唐突な質問に、しかし葉山はゆっくりと頭を縦に振った。篠畑は目を細めたまま、
「そうですか、それは一般に幸せなことと言われていますね」
「それが、何だというのです」
篠畑はわざとらしく息を吐いた。
「……それにしても『愛』という感情は、どこまでいっても独善の域を出ません。言葉遊びをすれば、独善は『毒然』です。即ち害悪であると言えましょう。『愛×n=害悪』という方程式は、万人に対して成り立つ。愛の心身への侵襲性を考えれば、それは必然であるとすら言えましょう」
「侵襲、ね。実にあなたらしい表現だ」
「不思議ですね。言葉で縛れないものが数値で表せると思いますか?……素数のお話ですよ。なぜヒトは、いや生命は『2』を求めるのか。『3』の裏切り。無視された『1』からの復讐。正答は限られているのですよ、極めて狭窄な形に。言うなればそれこそが独善の具象であり、人々の大好物なのです」
葉山は黙って篠畑を睨む。篠畑は苦笑して、
「もう少しアフォリズムに話を傾けましょうか。君に解せないことは、僕の腑にも落ちないことですから」
そう言って椅子に腰かけ、悠然と足を組んだ。
「わかっていますよ、君は僕を憎んでいる。それと同時に深い興味を抱いていますね? 『その一言』を言いたがっている。言いたくても言えない、その一言に苦しんでいる」
「……」
篠畑の眼には、明らかな威圧と歪な救いの光が燈っている。それを葉山に向けながら、朗々と、
「楽に、なりたいでしょう?」
しかし葉山は応じない。それでも篠畑は続ける。
「ならば座しなさい。儘に導かれなさい、天啓の下に。すべてを許される時は、そこまで来ているのだから」
「……」
「愛とは、偉大なる言い訳であろう……聖書や教条は、それを頑なに否定します。しかし――」
篠畑のその言葉を遮るように、葉山は声を振り絞って、
「あなたは、間違ってる」
篠畑は微笑んだ。そして、葉山の殺気を無視し、
「僕の好きな曲、ご存知ですよね。とても美しい曲です。ショパンの『幻想即興曲』。あの曲の成り立ちをご存知ですか?」
葉山は怪訝な顔をした。何故今、そんな話を持ち出すのだ?
「なぜ僕があの曲を好むのか、その成り立ちを聞けば自ずとおわかりいただけるでしょう。……そうですね、紅茶の味が出るまでもう少しかかります。時間潰しにでも、お話しましょう」
篠畑はティーコージを指で一回弾いて、こんな話を始めた。
「誕生には諸説あるこの曲ですが、特徴的なのは、左手が1拍6等分、右手は1拍が8等分であることでしょう。非常に難易度の高い曲ですが、聴く者の心を非常に刺激する……そう、この不安定なリズムと高揚感のあるテンポが、人間の脳に適度な不安を与えるのです。最後まで聴かずにはいられない不安をね。物事の結末ばかりを知りたがる人間の心理を見事についた曲なのです」
「ドクター、僕はそんな話を聞きに来た訳じゃない」
「――彼は、裏切りに遭いました。しかも、死んだ後に。彼には無二の友人がいた。病と共にあった彼の生涯に、どんな時にも支えになってくれた、大切な友人が。その友人に、死の間際にショパンは告げました。『自分の死後、この楽譜を燃やして処分して欲しい』と。ところがその友人――フォンタナが遺言に背き公にしたとも言われるのが、この『幻想即興曲』です。本来ならばショパンの嵐のような生涯とともに消滅するはずだったこの曲が、二百年以上もたった今でもこうして人々に愛でられている。一体これは、どれほどの皮肉でしょうか。愛を求め鍵盤に生涯を捧げた彼が、死後に裏切りに遭い、人々に愛されている。このエピソードは、僕の中で宝物のように輝いているのですよ。この曲を公にした瞬間の、フォンタナの精神状態を想像するとね、……どうしようもない快感が僕の中に突き抜けるのです」
葉山はあからさまに不快感を示した。
「あなたは……最低だ」
「君がそう思うのなら、そうなんでしょうね。まぁ、そう怖い顔をしないで、もう少し雑談にお付き合いください。時間ならいくらでもあるでしょう。……事のついでに、昔話をしましょうか。君に最低だと思われるのはいささか心が痛いですからね。いいえ、どんな人間にどう思われようがどうでもいいことです。しかし、僕が興味を持った人間に、そんな風に思われるのは心外であり――本望でもあります」
「本望?」
「このアンビバレントさは人間を常に苦しめるのでしょう。いえ、言っている意味をすべて解する必要はありませんよ。そもそもそんなことはただの幻想であり、思い上がりに過ぎませんから」
篠畑は椅子から立ち上がり、ティーポットの様子を確認した。
「さて。どうして世の中には斯様にも、ラブソングが溢れているのでしょうね。人々は愛を歌い、詠い、謳うのでしょうね」
「さぁ、知りません」
切り捨てるように答える葉山。
「その答えの一つは、寂しいからです。誰もが孤独の中にいる。孤独をいくら足し算しても、死という名のゼロを掛ければすべてが無に帰する。そしていくらプラスの事象を掛けあっても、一つでもそこに裏切りのマイナスが存在すれば、すべてがマイナスに陥る」
「……」
「それを悲劇と嘆かないことです。大切なのは絶対値なのですから。プラスだろうとマイナスだろうと、そこに存在を証明してくれるのが絶対になのです。そして、その存在に意味と確信を与えるのが素数です。その中で孤独を示す『2』が、愛に対する正答なのです。しかし人々は己が『1』を忘れ初歩的な足し算を違え、裏切りの『3』を導いてしまう。フォンタナの背負った罪は、僕に極めて酷似している。ショパンが彼を許すことは、決してないでしょう。誰も素数を解体できないように」
篠畑は、足を組みかえるとこんなことを言い出した。
「……君には、告げておきましょうか。僕が最初に手を掛けた人間の名を」
葉山は一瞬の戸惑いの後、
「何故です」
「君にはきっと、その資格があるから。そして僕には、君にそれを告げる義務がある」
そう言う篠畑の顔は、尚も笑みを絶やさない。葉山は平静を装い、
「僕が聞いて、それをどうするんですか」
「それは君自身が判断することです」
「なんて無責任な――」
篠畑は間髪いれず、その名を告げた。
「若宮恭介」
「――!」
「聞いたことくらいは、あるでしょう」
葉山は、ぐっと唇を噛みしめた。まさか。彼は交通事故で死んだはずだ。
「そう。彼は公には交通事故で亡くなったとされています。ですが……もったいぶるのもおかしいですね、教えて差し上げましょう。恭介は僕がこの手で葬った人間です」
「なんだって……?」
何があった。何があったのだ?
「随分と時間がかかりましたけどね、彼に『決意』させるには。一番手こずった相手だったなぁ。その分、彼の死の一報を聞いた時にはね、本当に楽しかった」
葉山はギッと篠畑を凝視する。
「いい目を、していますね。まるで肉食獣だ。いや蛮勇ではない、それはきっと勇気と呼ばれるに相応しい光を燈している。覚えていますか?君はつい最近まで、右目に絶望を、左目に憎悪を、口元に愛への飢餓を湛えていたことを」
葉山は更に篠畑を睨みつけるが、篠畑は余裕顔だ。
「覚えて、いないでしょうね。それは君の知らないうちに君の中で昇華したものだから。飢えていた部分とは、純粋な欲求によく似ているのですよ。食欲・性欲・睡眠欲。これら3つの欲求は、真っ直ぐ愛につながるのです。少し考えればわかることですが……彼女の死は、皮肉にも君を満たした。それは疑わざる事実です」
葉山の口元が強張る。それを見た篠畑はたたみ掛けるように、
「もう一度言います。彼女の死によって、君が満たされたという事実がここにある。満たされたが故に君は今、こんな場所で呼吸をしている」
「言っている意味が、わからない」
必死で動揺を隠している葉山の姿が可笑しくて、篠畑はわざとこんなことを言ってみせた。
「なぜ僕が君に興味を抱いたのか。それはね、君が僕と同じ眼を持っているからですよ。そう、『孤独な裏切り者の瞳』をね。君は彼女の最後の願いを裏切った。だから今、こんな場所へ来ている」
「違う」
「彼女が望んだのはこんな結末でしたか?君は君自身を見失わないで生きてほしいというのが、彼女の願いではありませんでしたか。何故今、またこうして僕に導かれようとするのです。弱さゆえ、でしょうね」
「違う。僕は貴方に導かれになど来ていない。決着をつけにきたんです」
「勇ましいことですね。しかし、人間の本質はどこまで行っても変わらないのですよ。属性とでも言いましょうか、それは都合よく変えられるものではない」
葉山は湧きあがる感情を抑えきれず、胸ポケットから徐に、拳銃を取り出して直に篠畑へ向けた。だが篠畑は恐れることなどなく、それを嗤った。
「その武器が何よりの証拠です。弱さの証です。彼女は言ったのではありませんでしたか?『武器など、要らない』と」
「貴方の高弁は結構だ。僕はもう、逃げない」
「逃げ場がないから?」
「そうだとしても、それはきっと彼女が遺してくれた場所だ。だから僕はここから逃げない。自分から逃げない。決して」
「随分と……自我意識がしっかりされたようですね。うん、良い目だ。僕好みのね」
葉山は両手で拳銃を支えながら、自分の中にある『彼』の影を一瞬だけ意識しそうになり、首を横に振った。篠畑は、葉山が未だに『彼』の影を恐れていることを知っていながらそんなことを言うのだ。彼はまだ、十分篠畑の掌の上なのだろうか。
篠畑は温められたティーカップにセイロンティーを注ぎ、葉山に差し出す。凶器を向けられている人間とは思えない余裕である。
篠畑は声のトーンをやや高くして、こんな話を始めた。
「知っていますか?虹色のアメーバのお話。とある捻くれた詩人が大昔に詠んだ詩に出てくるんですけどね、その一節に、こうあるんです。

『人のこころはアメーバのように色と形を変え、やがて砕け散る。』

その瞬間が何よりも美しいと、僕は考えます。そう、今の君はそのアメーバがまさに変容する一歩前だ。さぁ、どう変わるのでしょう、君の認識する、その世界は」
「僕はもう、あなたの言葉には惑わされない」
「でしょうね」
「僕は、変わったんだから」
「そうでしょうか?」
「彼女に誓って」
「そうですか。確かに、『僕の』言葉には惑わされないのかもしれません」
紅茶の完成と共に、篠畑が描く最後の舞台の幕開けが迎えられようとしている。それにまだ、葉山は気づいていない。
「ねぇ、葉山君。こんな場所まで来てくれたご褒美に、とっておきを差し上げましょうか」
葉山は拳銃を構えたまま、
「僕に、紅茶の趣味はありません」
吐き捨てるように言った。篠畑はティーカップを小指で小突いて、
「知っています。何、安心してください、必ず君のお気に召す筈ですよ」
「何がどうあろうと、僕は、あの日の彼女への誓いと共にあるんだ」
「だったら尚更だ。それは、どんな誓いでしたか?」
「答える必要がない」
葉山はまだ、篠畑の言葉の真意を理解できていない。
「そうですか、じゃあ、本人の口から聞き出しましょうか」
しかし、嫌でも理解を、というより認識をせざるを得ない事態が直後に起きることを、どうして彼が予測できたであろうか。
「『本人』?」
葉山は言ってから、急激に全身に悪寒が走るのを感じた。構えていた銃を、成す術なく落してしまった。床に叩きつけられた武器が、乾いた音を立てて転がった。
篠畑はそれをせせら笑うように、こう告げた。
「ええ。本人に」
葉山は二の句が継げなくなった。篠畑は勝ち誇ったように白衣を翻し、奥の本棚の片隅に置かれていた箱を取り出した。白い本体に、丁寧に青いリボンが掛けられている。
「特別贈呈品、とでもいいましょうか」
葉山の顔がみるみる歪んでいく。篠畑はその箱を、葉山に手渡した。
「ほら……感じるでしょう?」
重みが。
温度が。
すべてが。
残酷なものとなって、今、硬直した葉山の両の手に託される。
「さぁ、開けてください」
まるでプレゼントを渡すかのような口ぶりで篠畑は言う。いや、篠畑にとってみればこれは『贈り物』であるのかもしれない。極めて怜悧冷徹で嗜虐趣味の至高のような。
葉山は完全に言葉を失った。今、自分の手中には、『ある』のだ。この直感は間違いない。何が起きてもおかしくない魔都市・東京。しかしこんなことがあっていいのだろうか。
こんなことがあって、いい筈がない。しかしありえないこと……はありえないのが、この街だ。土竜が刑事になり、人を殺し、同僚は呪われて土竜と化した。何があっても、今更だ。
しかし――何よりも狂っているのは、今目の前で微笑みを浮かべている、篠畑礼次郎その人だろう。わかりきっていたことなのに、その人格は疾うの昔に崩壊していたのだ。そんな人間相手に、真っ向勝負を挑むこと自体が間違っていたのだろうか。
問いかけは無意味で、今自分の両手にかかる重みや温度が、彼に両価的な感情を抱かせた。
篠畑は言った、自分と彼とは同じ眼をしていると。そのロジックが成り立つとすれば、葉山もまた狂っているのであろう。事実、衝撃と共に彼の中には狂気と呼ぶに相応しい歓喜の感情が湧きあがっているのだ。

(また、会えたね――)

葉山は震える手で箱を開けた。そこには紛れもなく、あの日、若宮郁子を葬ったナイフが転がっていた。
それとほぼ同時に、この空間に動く人影があった。あまりにも不自然な登場に、しかし葉山には動揺が無かった。むしろ、確信に近い感情でそちらを見やった。両目に、いびつな光を灯して。
「僕の、最高傑作です」
篠畑が告げる。
「さぁ、おいでなさい」
ゆらりと葉山の前に現れたのは、他でもない、若宮郁子だった。彼女は、口を真一文字に結んだままだ。
「言ったはずです。僕の趣味は『人形遊び』だと。こうして人形を作ることも、もちろん僕の趣味なのです」
そんな篠畑の言葉は葉山の耳には入らない。ゆっくりと手を伸ばして、若宮の頬に触れた。
「――……」
冷たい。感触は、死んだ人間のそれだ。篠畑は葉山の様子を観察するように言った。
「いかがです?」
「郁子……!」
葉山は若宮の顔を撫でまわす。彼が死体を抱きしめるのに、そう時間はかからなかった。