最終章 誕生

(一言だけ、足りなかったのは、お別れの挨拶だったように思う。その他の言葉は全て語りつくしたと、俺は勝手に思ってる。思い込みでもいい、そう思いたい。「さようなら」だけは言わないで、俺は逝った。まぁ、言い残した言葉があっただけでこの世に縛られていたら、この世は自縛霊で溢れ返ってしまうだろう……なんてな。不条理で溢れるこの街だ、いまさら何が起きても、お前は驚かないだろう。あの日のように冷酷な目で、俺を否定するのだろう)

「覚えているというよりは、忘れられなくね」

あの感覚が。
乞われてかけた、あの言葉の感触が。

「忘れたいと何度も思いました……、しかしその背徳感すら、ある種の人間にとっては快楽を催すものなのです」
篠畑の言葉に、葉山は吐き気よりも寒気を覚えた。この感覚は何だと戸惑う葉山を、篠畑はすっかり見抜いているようだった。
「それはね、先ほども言いましたが、僕と君が同類である証ですよ」
言われて葉山はみたび、視線を両腕の中の『彼女』へ送った。
「葉山君。手が震えていますよ。それは、何故でしょうね」
「……知らない……」
「『彼女』に再会できた喜びですよ」
再会。もう二度と逢えないと思っていた、彼女。だが、誰がこんな形での再会を望んだだろうか? いやこれは、感動の再会などではない。いびつな舞台のあまりにも残虐な展開だ。
なのに、何故すぐさま否定できない? 何故拒めない? 与えられたこの運命を、拒否できないというのだ。
「喜びを感じた時、人はどうなるかご存知ですか」
篠畑の言葉に、葉山は口元を引き攣らせた。
「笑えばよいのです。素直に」
そう言って、篠畑はゆっくりと葉山に歩み寄る。硬直したままの葉山は、ごくりと唾を飲み込んだ。両手にかかる『彼女』の重みや冷たいその温度が現実を遠ざけているようで―――葉山は、もう何度味わったかわからないあの感覚を思い出しつつあった。いや、侵され始めたと表現した方が正しいだろう。
わかっていても繰り返す。人はそれを、『過ち』と呼ぶ。所詮、人間は過ちの上にしか未来を築けないということだ。土台が過ちならば、未来においてそれを繰り返す、現在が過去に変わる瞬間に今が過ちに堕ちていくのは必然の理なのだろう。

何故、夢を見た。その事実から目を逸らす為ではなかったか。
何故、希望に縋った。この先の不安から逃れるためでなかったか。
何故、明日が来ると信じた。『彼女』に明日は来なかったではないか。

葉山は目眩を覚えた。ふっと脱力すれば奪われる、風の前の塵のような意識。
(こんなはずじゃない。僕は変わったんだ。変わらなきゃいけないんだ。今度こそ、僕は僕の人生を自分自身で――)
「その子は死にました」
葉山は目を白黒させる。
「君の所為で、死にました」
激しく逡巡する葉山に、篠畑はそう言った。
腕の中の感触。黙したまま唯、冷たい肉塊。それが、若宮だ。
「その子にはもう、何もありません」
夢も、未来も、明日も、絶望でさえ。
篠畑はゆったりと歩を進め、葉山に息のかかる距離まで近づき、細い指先で彼の頬をなぞる様に触れる。
「決して、『彼』を忘れないことです」
葉山の口元の強張りが、より一層強まる。
「自然な感情に抗った結果が、今の君の姿です。ステレオタイプやスキームに己を嵌め込み、捻じ曲げて偽り続けた結果が、若宮郁子を死に追いやった」
篠畑の言葉には容赦がない。かといってこれは一方的な糾弾ではない。そこにある紛れもない事実だ。
「では、どうすれば良かったのか? 答えはいたってシンプルです」
「……」
そう、葉山も篠畑の言わんとすることを本能に近い部分で理解してしまっているのだろう。葉山は、自分の中に恐怖を越えた強烈な感情が湧きあがるのを、徐々に抑えられなくなっていた。『彼女』を抱く手の震えが大きくなっていく。
「美しいか否か。正義か否かはそれで決まると言っても過言ではない。では、人間がその美意識をどこに求めるか」
「……」
篠畑は「君も既に分かっているとは思いますが」と前置きした。
「つまり、自然に身を任せている瞬間です。お人形さんの服を剥いで、弄んでいる状態。僕の好きな、人形遊び。息苦しい思いをして無理に被っている仮面を脱いで、本当の姿を、他ならぬ自分自身に見せること」
「――」
そうして、葉山にとどめを刺すように、耳元で、篠畑はこう囁いた。
「『彼女』がそれを望んでいたとしたら?」

――君を、待っているから!

瞬転。
「――」
何かが、葉山の中で弾け飛んだ。