第十三章 決意

十六夜の月が綺麗な夜。綾香はクリニックで出会った憧れの男性との初デートを終わらせ、半ば夢見心地で夜道を歩いていた。ミズから借りたワンピースはやや派手のような気がしたが、意外に体にフィットした。背の高いミズにはミニスカート丈でも、綾香にはちょうど膝丈だ。
食事の後、「送っていこうか?」と言われたが、初デートで住所まで教えるのも軽い女だと思われそうで嫌だったし、ましてや同棲しているのがまさか、都市伝説が一人だなんてとても言えないので、断った。しかしやっぱり送ってもらえば良かったかもしれないと、綾香は早々に後悔した。夜道は思ったよりも暗く、人通りが少なかったし、先ほどからひたひたと後を付けてくるような足音がしているような気がするのだ。かといって振り返るのも怖かったから、綾香は早足でこの道を抜けようとした。
近道なんて考えなきゃよかった。突き当たりを右に抜ければマンションに繋がる道のはずだ。もう少し。綾香は歩をより早めた。慣れないハイヒールのせいで足が痛かったが、今はそんなことよりも早くこの道を抜けたい一心で、必死に歩き続けた。
雨が降っていなくてよかったと思う。最近は、雨の夜にこの近辺で奇妙な事件が頻発しているからだ。なんでも、亡霊が現れて問いかけをし、それに答えられないと殺されてしまうというもっぱらの噂だ。
くだらない噂だとわかっていても、こういうときに限っては本当に怖い。まさか本当に亡霊が現れるとは思えないが、ふと前を横切った影に、綾香は身を竦ませた。鳥の飛び影が街灯に映ったのだろうか?少なくとも一瞬で消えたので人間のそれではない。綾香は気にしないことにして、ふっと息を吐いて歩き続ける。だが曲がり角まであと3歩のところで、彼女の足は止まった。
いや進まなかったといった方がいいだろうか。
彼女の目の前に、亡霊が、現れた。ボロボロのスーツを纏った、背が高く顔の青白い青年だった。亡霊という割にはハッキリとその姿が視認できる。綾香は、悲鳴を上げようとしたのだが、変質者を追い払うためのそれは、上擦った声に変貌した。青年の手元に異変を見て取ったからだ。青年は、異形の爪先をぺろりと舐めながら、綾香に問いかけた。
「切っても切っても切れないもの、なーんだ?」
これが、噂に聞く亡霊の問いかけなのか。
「過去と現在。これをカッコつけていうと、なーんだ?」
亡霊は勝手に答えを出しては、問いかけを続ける。
「因果。じゃあ、それを唯一破る奇跡を人はどこに求める?」
「あ……あ……」
「そろそろ答えてほしいナァ」
綾香は、足下から凍り付いたように動けない。どうしよう、何か言わなければ殺される。これだけは間違いないと直感で確信した。
「ヒント。人の大好物」
大竹の口元がグッと歪む。
「愛と正義。簡単だろう?」
亡霊――もとい、大竹幸彦は一歩、二歩と綾香に近寄りながら、
「じゃあ、最終問題~」
ちゃかしたような口調で告げた。
「じゃあ、その愛と正義は、何処にある?」
愛。
正義。
誰だって聞いたことのある言葉だ。
それがどこにあるかなんて、そんな問いかけはナンセンスで、なぜなら彼女はそれに満たされているし、同時に深い孤独の中にいる。しかし彼と違うのは、それに溺れていない強さを兼ね備えている部分だ。
綾香は咄嗟に、自分の胸元を指さしてこんなことを言った。
「ここに、ある」
大竹は、興味深そうに片眉を上げた。
何か言わなければ、殺される。その不気味な爪で、きっと貫かれてしまう。だから逃れるために言ったつもりだった。しかしその答えは、大竹の興味を強く引いた。
「そうなのか」
一転して声のトーンを落とした大竹は、今宵も血塗れるはずだった爪とニヤついた笑顔を引っ込め、すらりとした人間の指先で、綾香を手招きし、首をちょこっと傾げて
「教えてくれよ」
真顔で近づいてきた。
「そこにあるんだろ」
……何もされないわけがない。普通なら、暴行されることを想定するはずだが、綾香はこの時、街灯に照らされた大竹の目、その色のあまりの寂しさと潤みに息を飲んだ。そして、
「……寂しいのね」
そう思わず口走った。大竹の歩が止まる。
「違う」
今日が雨じゃなくてよかった。雨で視界が曇っていたら、恐らく綾香が大竹のそれを見抜くことはできなかっただろう。もしかしたら雨煙が孤独を誤魔化していたことを、彼はどこかでわかっていたのかもしれなかった。こんなよく晴れた十六夜の夜に出没したのは、果たして誰の気まぐれか。
「――看破して、しかも構ってほしかったのね」
突然、先程までとコントラストの激しい声色で綾香が言った。
「でも、歌ってあげないわ」
「何を、言っている?」
「私は、あの人のためにしか歌わないの」
「?」
「あなたには資格がない」
綾香は申し訳なさそうに、しかも詩を詠むようにゆっくりと、辛辣な言葉を大竹に向ける。
「誰かを愛する資格は、生者の特権だから」
「否定するのか、俺を?」
「いいえ。あなたが認識を誤った世界をよ」
「俺が間違っているというのか」
綾香は大竹を哀れむような目で、実際哀れんでいたのだろう、自ら息のかかる位置まで近づき、その腕に触れ、
「可哀想にね」
そう言った。
驚いた大竹は、不気味なものを振り払うように綾香の手を除けるが、力が思うように入らない。
「モグラに太陽が微笑まないのは、しょうがないじゃない」
この言葉は、大竹を、いや彼の中に流れる土竜の血を傷つけた。
「あなたが愛されないように、世の中できちゃったのよ」
綾香が、いや玲子が告げるのは事実なのだろうか。だとしたら、誰にとっての事実か。そしてそれは一つの真実になりうるのだろうか。

「なん、だと?」

彼の悲痛な問いに対し、尖った氷のような言葉を、その小さな唇から玲子は紡ぎだす。

「あなたは、決して愛されない」
「――」

突き放された、気分だった。
それは赤子が母から、少女が花から、月が空から、世界が光から、見捨てられたも同然の。

「その呪われたセイは、生きる場所を違えた罰」

大竹はその言葉に悪寒を覚えた。いやそれは土竜だろうか。

「それは、あなたが唯一、受けて然るべき愛よ」
「うるさい」
「……憐れな貴方、歌ってあげるわ」
玲子は微笑んで、すっと夜風を吸い込むと、ゆっくりと歌い始めた。

♪愛した記憶に塗り替えましょう
愛されたつもりになって踊りましょう
そうすればもう何も怖くないでしょう♪

これは、断罪か? それとも、贖罪か?

玲子の歌声は、じわじわと彼を蝕んでいく。

♪だって何があったって

あなたは、愛されない。

「――っ!」
突如として大竹の足の指先から衝動が駆け抜け、すべての熱が集約したように涙腺に、既に感じないはずの『痛み』が走った。
「うっあ」
猛然として、止められないほどの涙が溢れ出す。
「あ」
その涙に次第に血が混じりだし、

――そういえば、俺、『あの時』殺されたんだっけ。

そんな、土竜とも大竹のものともつかない記憶と共に、急激に結合と均衡を崩していく肉体が、玲子の胸元に崩れた。
「……還りなさい。地球へ」
「い、やだ」
「どこまでも我が儘なのね。愛されたいから」
硬直していく唇では『違う』とは言えなかった。
何故なら、その通りだったから。

愛されるために従った。
愛されるために刃向かった。
愛を知りたくて誰かを愛した。
愛を知ったことにしたくて守ろうとした。
愛が叶わなくて奪いたがった。
愛を手に入れて自分を失った。
愛されることにすべての言い訳が成り立つと思っていた。
愛になにもかも擦り付ければ済むと思っていた。
愛は完全な不完全であるが故、愛の名の下には、何もかも許される。
愛とは信じること。
愛って何だ。
愛って。
「――何?」
大竹幸彦と呼ばれた肉体が、最期にそう呟いて永久の沈黙に堕ちた。
玲子は、正しく死せる『一人の』男を抱きしめ、そのまま眠りについた。初夏の不可思議な暖かさが、二人を包んでいた。