第十三章 決意

同じ夜、葉山は意を決していた。しかしそれを誰にも悟られないように、まるで呼吸をしていることすら、誰にも気づかれないようにひっそりと、夜の闇を味方に付けてこの街に現れた。目的は一つ。『見えざる影』との邂逅である。
もう逃げ出してはいけない。逃げるわけにはいかない。僕はあまりにも逃げ出しすぎた。自分を見失うことで、何度舞台の上で踊らされただろうか。踊らされることで逆にどこかで安心し、慢心し、戦いを避け続けてきた。招いた結果がこれだ。
しかし自分はもう決意したのだ。傷つき、痛みを受け、仮令倒れようと生きていくことを。即ち、戦っていくことを。死ぬときはきっと、誰のためでもなく自分のために果てようと。
「本庁捜査一課の葉山だ。夜分にすまないが、手続きを頼む」
所属を言っただけで相手が驚き、自分の顔をじっと見てくる。気に喰わないが、それはそれで使える身分にいるのだから、存分に利用してやろうと思った。処罰を受け終えてからまだ日の浅い身分だが、職業威信というのはつくづくこの社会では強いものなのだと思うと、ため息が出る。
事務員に連絡をつけたらしい入口の監察官が、
「葉山警部補。お疲れさまです」
そう言って敬礼をした。その様子からして、一連のゴタゴタのことは知らないようだ。知っていたところでどうというわけではないが、自分が今、庁内で置かれている立場くらいは多少、理解しているつもりだ。
処分を破った挙げ句、将来有望だった若宮郁子を見殺しにした。確かに、間違ってはいない。そう思われてもしょうがないだろう。中には大竹幸彦の凶行をも、葉山のせいではないのかという噂が立っている。それも、悲しいことに間違いがない。しかし真相を知る者は誰一人としていないのだ。本当のことを知らずして、あれこれ言ってくる人間の発言などどうでも良い。
消灯時間を過ぎた刑務所内は当然ながら静かで、葉山は自分の靴音がやけに映える廊下をゆっくりと歩いた。先を歩く案内係との距離が生まれるが、それには気を配らずにただ前を見据え、じっとその場所が現れるのを待った。
最奥をさらに奥へ移動し、細長く空気の冷え切った道を抜けると、突如として白い壁紙が現れた。葉山は息を飲んだ。覚悟はしていたはずなのに。その思いとこの壁紙の平和な白色のギャップに、肩すかしを喰らった気分だ。
それだけではない。消灯時間を過ぎているというのに煌々として明るいその場所は、芳しい香りに包まれていた。
ファーストフラッシュのダージリン。あの「57」で飲んだ一杯に、非常に香りが酷似していた。もっとも、そんなに区別が付くほど葉山は紅茶には明るくない。だが、あれだけは生涯忘れまいと誓った香りだ。それが今、似たような顔をして自分に語りかけてきた。
この壁の向こうに、あいつがいる。
「葉山警部補。私が案内できるのは、ここまでです」
「ありがとう」
ついに一度も目を合わせないまま、案内係は敬礼をして去っていった。葉山はぎゅっと拳を握った。自分を見失わないため。目的を完遂するため。僕が、僕で生きるため。そして君との約束を果たすため。
ここに辿り着くのは簡単だった。辿り着いた先が、スタートラインだった。しかしそこに立つために、僕は一体どれだけの犠牲を払ったのだろう。考えればキリがない。しかし、過ぎたことを勘定するのは敗者の常だ。僕は、自分の未来を自分の手で手に入れなければならない。足跡を無様に残しながら、浮つく人々に弄ばれながら、笑われながら、傷つきながら、それでも、戦っていくことを決めたから。生きていくことを決めたから。
扉を開ければ、何かが始まるかもしれない。何も始まらないかもしれない。しかし、何かは変わるかもしれない。……何も、変わらないかもしれない。
それでも、進まなければ。
「――」
葉山の手の震えは、檻の鍵に触れた途端にふっと消えた。もう前しか見てはいけないと告げる様に、過去を縛る如き鍵穴は一瞥しただけ。慰め程度に手応えがして、扉は、開かれた。
鉄扉の重みがのしかかる。命の重みだろうか。だとしたらそれは、一体誰の。