二十二話 刹那の灯(一)血

その場に居合わせた女性看護師がすぐに美奈子に駆け寄り、三角巾として使っていたバンダナで美奈子の二の腕をきつく締めあげ、「大丈夫だよ」と声をかけた。それから先ず消毒しようと傷口から溢れる血を拭おうとするが、見た目以上に裂傷は深く、流血がなかなか止まらない。

とっさの判断で、看護師は美奈子に問うた。

「血液型は?」

「AB型です」

「Rhはわかる?」

「……マイナスです」

看護師の表情がひきつる。AB型かつRhマイナスの血液型はこの国では最も少なく、およそ二千人に一人とされている。万が一輸血用の血液が必要になった場合、最寄りの血液センターから血液を取り寄せなければならない。

しかし、この立地だ。奥多摩の自然は時として、人間の営みに立ちはだかる壁となる。そして木内の願いも虚しく、人はいともたやすく人を傷つけることも事実なのだ。

木内の医療用PHSを何度も鳴らすが一向に応答がないため、しびれを切らせた看護師は作業療法士に美奈子を託し、デイケアルームを飛び出していった。

織本が皺の深い両手で美奈子の頬をそっと覆い、「ごめんなさい」と何度も謝るものだから、いたたまれなくなってうつむくのは山下である。川崎はそんな山下を一瞥してから、美奈子に声をかけた。

「ごめん、俺のせいで」

「いえ」

美奈子は気丈に笑ってみせた。

山下に対しては、彼が昨日さんざん智行に痛い目に遭わされたのちに、ベテランの男性看護師がじっくりと話を聞いたはずであった。そこで反省の弁を述べていたことから、木内の判断でお咎めなしとし、今日のデイケアにも参加を許されていた。

それにもかかわらず、この山下という青年は己の未熟さを性懲りもなく振りかざし、あまつさえ人に怪我まで負わせた。いくらここが守られたサンクチュアリとはいえ、人々の優しさの上にあぐらをかいたことは、到底許される行為ではない。

しかしながら、その罪の重さを誰よりも痛感していたのは、山下自身であった。看護師が止血を試みても流血がやまず、血塗れの腕をだらんと下ろした美奈子が、それでも「うん、大丈夫です」と口角を上げてみせている。それに比べて、自分のこの体たらくがどこまでも情けなくて、山下は膝から崩れ落ちた。

「……ごめんなさい」

近くにいたデイケア参加者がようやく聞き取れる程度の弱々しい声ではあったが、彼は謝罪の意を示した。川崎は舌打ちしたくなる気持ちをぐっと堪え、「ランドリールームからバスタオルを持ってくるから、お前手伝え」と山下を睨んだ。山下には従う以外の選択肢はなかった。

ランドリールームで洗濯機を回していた岸本のPHSが鳴ったのはこの頃で、その場での応急処置はこれ以上施しようのない状態であることが伝えられた。まもなく真っ青な顔をした川崎と、川崎の陰に隠れるようにしてついてきた山下が姿を見せたが、岸本は深くを問い詰めることなく、しかし的確な指示を二人に与えた。

「茶色の棚から、バスタオル二枚とハンドタオル五枚。緑のキャビネットから止血帯と消毒用アルコール、コットン、包帯、ワセリン。清潔な水がペットボトルに入ってるから、常温で2リッターを二本。あとラップも」

弱さは、人を傷つける。人は傷つくから弱いのではない。弱さゆえに傷つくのでもない。弱さが、人を傷つけるのだ。

時を同じくして、白い部屋のカーテンで隠された入口から顔を覗かせた途端に看護師と鉢合わせた木内が、彼女の緊迫した表情に面食らった。

「あれ、どうしたの」

「どうしたの、じゃないですよ! なんで肝心なときにピッチ出てくれないんですか!」

「え、ああ。ごめんね、ちょっと事情があって」

「人の命より優先していい事情なんてありますか?」

「え、それどういう意味——」

木内が言い終えるのを待たずに、看護師のPHSに作業療法士から着電があった。迅速に応答した看護師は必要な情報を聞くとさらに険しい顔になり、木内にこう伝えた。

「応急で消毒はしましたが、出血がなかなか止まらないんです」

「えっ」

「高畑美奈子さん、AB型Rhマイナスの女性です。先生、早く!」

看護師から事情を聞かされた木内は、考えるより先に駆け出していた。

その奥に存在する白い部屋で裕明がうっすらとまぶたを開き、天井に向かって手を伸ばしていたことは、誰にも知られない些事である。

「数えなきゃ……」

裕明の口から、トロトロと言葉が零れ落ちる。

「でも……何を、数えたらいい……?」

(丁寧に、数えなさい)

「……何を?」

(あなたが)

「僕が……?」

(今までに葬った人の数)

「……はい」

***

「美奈子ちゃん!」

駆けつけた木内は美奈子の負った傷を見て、すぐに判断をした。

「すぐに処置室へ」

病床をほとんど持たない小さなクリニックに珍しい型の血液は潤沢にあるわけではなかったが、AB型Rhマイナスのストックに木内は心当たりがあった。

裕明である。

提供可能となる十七歳を過ぎていたこともあり、裕明からクリニックへ献血を申し出てきたのだ。誕生日のたび、彼は「何か自分が役に立てるなら」と毎年献血をしてきた。本来ならば、この地域なら立川の献血センターなど設備の整った施設で行うべきことなのだが、彼を奥多摩から出すべきではないと判断した木内が、旧縁を頼って臨床検査技師を雇い、ここで献血を行っているのだ。

技師と看護師たちの仕事は的確かつ迅速であった。この土地、このクリニックで働くことを決断したのは、いずれも木内と岸本を慕っている少数精鋭の医療職だ。彼ら彼女らは、患者の尊厳を軽視しがちな既存の精神科病院での処遇のあり方について強い疑義を抱いている先進的な価値観の持ち主でもあり、木内が全幅の信頼を置いているスタッフである。

処置室のベッドに運ばれた美奈子は、出血の負担と緊張の糸の切断からか、横になるとそのまま眠ってしまった。よほど疲労が溜まっていたのだろう。声をかけても起きることはなく、その顔色はみるみる青くなっていった。

「大丈夫よ、大丈夫だからね」

応答はなくとも、岸本は何度も美奈子を励まし続けた。美奈子の容態を視診した木内は「輸血に際しての不規則抗体検査は可能」と判断し、必要な処置を開始した。

デイケアルームに残された他の患者たちがパニックを起こさないよう、作業療法士や川崎らが「大丈夫、もう大丈夫ですよ」と懸命に皆を落ち着かせる。織本はすっかり落ち込んでしまっていたのだが、彼女を励ましたのは、しかし専門職たちではなかった。

「織本さん、美奈子ちゃんは絶対大丈夫よ」

「もちろんそう信じたいけれど……」

「だって、ちらし寿司おかわりしてたのよ? あんな元気な子だもの、すぐにまた戻ってくるわよ」

織本に声をかけたのは、デイケアに参加していた五十代の女性患者だった。織本はその女性患者の言葉に、はらはらと涙を流した。

「まさか、あなたに助けてもらえるとは、思わなかった。こんなことって、あるのね」

織本が泣きながらそう伝えると、その女性患者ははにかんだ様子で軽く会釈をした。

支援する者と支援される者の間には、本来的には明確な線引きなど存在しない。否、線引きなどしてはならない。人間と人間を隔てるものは、ただ一つ「死」であるし、その「死」でさえも生きることと単純に対極に位置する概念ではなく、生きたその先に「死」が存在するのだ。だから、与えられた命はどんな形であれ「生き抜かなければならない」。なぜなら人間を含めたすべての生き物は、死ぬまで生きるのだから。

いつも傾聴ボランティアとして関わってきた相手から思いがけず励ましを受け、織本は驚きと同時にこのクリニックの持つ信念の根幹――相手をどこまでも信頼する――に触れて、改めて人を信じることの勇気と力を認識した。それはすなわち、このような経験が非常にドラスティックであるにもかかわらず、それを受け止める柔軟さ、しなやかさが彼女自身にあったということを意味する。

「そうね、私が泣くのは、お門違いよね」

織本が涙を拭うと、女性患者は明るい表情で頷き、「洗い物、済ませちゃいましょ」と促してシンクに向かおうとした。そこへおどおどした様子の山下がちらりと視線をよこしたので、織本はこう言葉を投げかけた。

「あなた、もしかしてご自分を憎んでいるの?」

「えっ」

虚をつかれた表情の山下に、織本は畳み掛けるように言葉を続ける。

「命に価値無価値の尺度はないの。だって全部尊いんだもの。あなたはもっとそのことと、自分の寂しさを知るべきよ」

「……寂しさ?」

「寂しさに飲まれては駄目。弱さを言い訳にするのは情けないことよ」

完全に織本のペースに持っていかれた山下は、継げる二の句を失う。先ほどまで目の前で血を流しつつも微笑みすら浮かべていた少女の姿が、まぶたに焼き付いて離れない。

「でも、あなたはまだ若い。いくらでもやり直せるわ」

「えっ」

「こうあらねばならない、なんて抑圧よ。思い込みとでもいうのかしら。それにがんじがらめになって、自分を傷つけなくてもいいのよ」

織本の言葉は、長い人生をたおやかに生き抜いてきた人間のものであり、包みこむようなあたたかさに満ちていた。圧倒的なその柔らかさに、山下の意固地が勝てるわけもない。山下はすっかり下を向いてしまう。

「こんな……こんな俺でも、やり直しなんてできるのかな」

力なくもらされた言葉を拾ったのは、川崎である。

「当たり前だ」

川崎は手際よく食器類を片付けながら山下にこう投げかけた。

「勝手に詰むな。詰むなら勝手にしろ。別に甘えんなとも言わない、俺にそんな筋合いはないし。ただ、お前が本気なら、前向きに考えてやるよ」

川崎は台所用スポンジを手早く動かしながら、一流レストランの厨房という戦場で養った鋭い視線を山下に向ける。

「学歴だとかなんだとか、そういう外付けのステータスの一切通用しない世界だから、覚悟は必要だけどな」

「川崎さん——」

「お前に包丁の正しい使い方を教えてやるよ。『一番弟子』って、めっちゃクールな響きじゃね?」

***

素足で廊下に出ると、真夏にもかかわらずひんやりとした感覚を得た。それでも爪先はじんじんと熱を帯び、一歩進むたびに鼓動は強く打つ。

生きている、いや生かされている。そのことを、誰にどう贖えばいいのだろう。わからない、わからないけれど自分はこうしてここで呼吸をしている。

(数えようか、此岸の夕暮れの虚しさを。そうしてモザイクをかけ続けるんだ、ありとあらゆる生きづらさに。)

処置室では緊迫した空気の中で木内の指示のもとで看護師達が的確に動いたこともあり、美奈子の容態はなんとか安定しつつあった。

意識こそ戻らないものの、疲労ゆえの睡眠だと判断した木内は胸を撫で下ろし、自分以外の医療スタッフに元の持ち場へ戻ってもらい、美奈子の横に腰掛けて深く息を吐いた。

処置室は診察室とは隔離された場所にあるため、直接外の風が吹き込むことはない。それでも木内が頬に空気の流動を感じたのは、「彼」が扉を開けたからだ。

ベットに横たわる彼女の腕に繋げられた管から、彼の血がゆっくりと注がれている。その様を見た彼は、瞠目する木内にこう告げた。

「やっぱり、この子だった」

「裕明、体調はもういいのか」

「僕が最後に手をかけるのは、やっぱりこの子だったんだ」

「それ、どういう意味だい」

「僕の血を使ってるんでしょ」

「そうだよ」

裕明は、その切れ長の両目いっぱいに憂いを湛えながら、口角を上げた。

「その子は、知ってしまうよ、何もかも。もしも耐えられなければ、壊れてしまう」

「え、なに、よくわからないんだけど」

木内の戸惑いにとどめを刺すように、裕明ははっきりとこう宣告した。

「この子は知ることになるんだ。僕が多重人格者にならざるをえなかった原因の何もかもを」