第十二章 素数

血縁という名の因果は、生命が連綿と続く中で一つの自己が自身を示すために、決して断ち切れない糸である。それは往々にして運命や絆と呼ばれ、美化される。こうして人々は命の本質への問いを見失い、現在まで生き長らえてきた。己の遺伝子を残すため。己の生きた証を次へ繋ぐため。
運命の糸、因果律を繰るものが神という存在ならば、神は生命に死という限りをつけておきながら、次へその命を繋ぐ行為に快楽を与え、同時に倫理という苦悩の原因となる障壁を作り出した。『彼』はつくづく思う、神はこの世界で一番のサディストだと。
もっともそんな神と『彼』は、とんだいい勝負だと、ミズは冷笑と共に吐き捨てかねないだろうが。
ミズは、目的駅で電車を降りるとすぐに携帯電話を取り出し、ある番号を入力した。わざわざ登録するまでもない、某特別刑務所のある部屋への、直通電話番号。それは極秘中の極秘。しかしインターネット上のある掲示板では、それが出回っているという噂があるが真偽は定かではない。
周囲の雑踏がやや煩かったが、ミズの集中力はそんな雑音を排除するに長けている。呼び出し音は必ず5回以内。それを越えるとミズの方が切ってしまう。あんな奴のために待つという時間、それ自体がもったいないとミズは本気で思っているからだ。
「こんにちは」
今回は3回で、耳障りな声がした。いや別段、彼は悪声というわけではない。静かなテノールはむしろ聞くものに、安らぎすら与えたほどだ――彼が医療に従事していた頃は。
「読書のお邪魔をしたかしら」
「いいえ。大丈夫ですよ」
「あんたの『大丈夫』は、全然あてにならない」
電話に出た相手――篠畑礼二郎はクスリと笑った。
「お気遣い、感謝します」
「勘違いしないで」
ミズは不快感をこれでもかと声で露わにした。
「ちょっと駅前まで顔出しなさい」
そう言いながら近くに見えるビル群を睨んだ。篠畑はやや呼吸を置いてから、
「穏やかではないですね。何かありました?」
「愚問だわ。用も無いのに、あんたに電話なんてしない」
「それもそうだ」
「相変わらず余裕顔のようね、この引きこもりが」
「随分な言われようですね」
「事実を述べたまでよ。今すぐ外出届けを出しなさい」
「それは可能ですが……余程僕に会いたいとお察しします」
「殺すわよ」
「冗談に聞こえませんね」
「いい? 5時に六本木」
ミズはそう告げると一方的に電話を切った。なんだかんだで篠畑は、必ず来る。悔しいが、篠畑が自分で『可能』と言ったことが果たされなかったことは、ミズの知る限り今まで一度もない。延長届けという紙切れ一枚を出せば、篠畑はいくらでも外出が可能だ。つまり、檻の中の見えざる影は、いくらでも自由を手に入れられる。
それでも、彼が『拘束された自由』の中にいるのは、それが若宮恭介との約束であるからということは、誰にも知られていないことであるし、わざわざ他人に口外することでもないと篠畑は考えている。

自分が言った時間までまだ少しある。ミズにしては珍しく、綾香に土産でも買おうと思い立ち、近くのスイーツショップに立ち寄った。都会の鋭敏なまでに洗練された店内は、まるでミズを喜んで迎えるようだ。青いタイトなワンピースを着こなしているミズには、こういう雰囲気がよく似合う。切れ長の柳眉な目をショーケースに向けると、繊細な作りの趣向を凝らしたタルトが目に入った。迷うのもナンセンスだ。ミズはすぐにそれを2切れ購入した。
その後、2階の喫茶ルームに入り、窓辺の席を選んで座った。腕時計を見る。4時44分。たかが語呂合わせで不吉だのなんだの騒げるような人種が、少しだけ羨ましくなってしまう。そんな自分をミズは自嘲する。
店内を見渡すと、デートを楽しむカップル、やや年を召した女性3人組だけがいて、比較的静かだった。平日の夕方なら、こんなものだろう。ミズはブレンドコーヒーを注文して、その流麗で美しい足を組んだ。角度がきわどいが、万が一、下から覗くような輩がいればその人間の五臓六腑は、ミズの名の下にバラバラにされることだろう。
コーヒーに角砂糖を入れ、くるくるとかき混ぜる。ゆっくりと溶けていくそれを眺めるのは結構面白い。ミズは都市伝説とまで言われておりながらも、そんな呼称が自分にとって意味を成さないこと、そして自分はただの人間であることを自覚出来ているから、彼女は今、自分を包んでいる緊張にも似た疲労感をすんなりと受け入れられた。
思わず出たのがため息だ。周囲が、いや世界が思うよりも、自分は凡庸な人間だと思う。……そう思いたいと願うあたりが、既に彼女の特殊性を悲しくも証明してしまっているのだが。
徒然に考え事をしているうちに、頬杖が痛くなってきた。足を組み換えて外の風景を眺めていると、5時を知らせるチャイムが鳴った。
ミズは特に振り向かなかった。入口に背を向けたまま、その声を待った。聞きたくもない声を。そしてそれは、近くのウェイターを呼びとめるもので耳に飛び込んできた。
「ああ、君。アールグレイを」
ミズは眉間にしわを寄せた。自分から呼び出しておいて甚だ不条理だと思うのだが、それにしたってその声、気に障る。
「あと、クラブハウスサンドイッチ。チーズは抜いてくださいね」
それでもミズは振り向かなかった。つまらない意地だと思う。
「ミズ、お待たせしました」
「無駄にパンクチュアリィね」
「僕の長所です」
「あ、そ」
現れた篠畑は、浅黄色のシンプルなシャツを着ていた。そういえば冬には同じような色のセーターを着ていた。篠畑が好んで着る色なのだろうか。そんなことはどうでもよくて、篠畑は相変わらずどこか読み切れない笑顔を浮かべてミズの隣に座った。
「お久しぶりです」
「なんの感慨もないけどね」
「もっともです」
ミズは不機嫌さを隠すどころかテーブルを指先でトントン叩き、篠畑の紅茶が来るのを待たずに、いきなり話を切り出した。
「面倒なことになったわね」
「はい?」
「何か知っているんでしょう。いえ訂正するわ。何もかも知っているんでしょう」
「目的語が無いと意味がわかりませんよ、ミズ」
「いつもながら、とぼけるのが上手ね」
ニコリと笑う篠畑。それを相手にしたら彼にペースを持っていかれると思い、ミズは視線を逸らした。
「被害者が出ているのよ。罪もない一般人が巻き込まれてる」
「『罪もない』ですか」
「何が言いたいのよ」
「罪の定義は、法律ですか?」
ミズは窓越しに篠畑を睨みつけた。
「観念的な話をしている場合じゃないでしょう。死者が出ているのよ」
「会話すればいいじゃないですか。その被害者と」
「無理よ」
「何故です?」
「声帯が、切られてる」
それに篠畑は興味を示したらしく、「ほう」と呟いてから、
「それは知っている人間ですね。貴女の事を」
「被害者は、あのまま荼毘に付されるみたいだから、綺麗なままで……あれ以上傷つけない裡に、遺族に返したわ」
「ミズ、貴女にも血が通っていたんですね。きっと彼女も、少しは浮かばれることでしょう」
ミズはその言葉に不快感を覚えるどころか、ここぞとばかりにニヤリと笑った。麗しい口元がつり上がる。ほんの少しだけ眉を顰める篠畑。
「何が可笑しいんです」
「かかったわね」
「はい?」
ミズは勝ち誇ったように、これ見よがしに足を組み変えてみせた。
「『被害者』としか言っていないのに、なぜそれが女性だと分かったの?」
途端に篠畑は、笑顔の色彩を暗くした。ミズはその反応に満足する。
しかし、篠畑は逃げも隠れもしないと言わんばかりに、朗々と、そしてミズの勝利宣言に抵抗し、何かを宣告するようにこう言った。
「血の、連鎖」
突如出てきたその不可解な言葉に、ミズは訝しげな顔をして、
「血の連鎖……生殖行為のこと?」
そのミズの殺伐とした、しかし真と芯をついた質問に対し、篠畑の声は至って冷静だった。
「表現が率直すぎますよ、ミズ。せっかくの美貌も褪せてしまいます」
「余計なお世話よ」
「貴女の連想していることとは全くの別物です。血の連鎖とは、即ち『フォリ・ア・ドゥ』のことです」
篠畑は、ミズにそれについて教授でもするかのように、しっとりとしたテノールでゆっくりと話し始めた。
「文字通り、血を媒介にした狂気の感染のことですよ」
篠畑のもとに、紅茶とサンドイッチが運ばれてきた。とても食事を楽しみながらするような会話ではないように思えるのだが、篠畑はサンドイッチにチーズが挟まっていないのを確認してから一口頬張り、「まぁまぁかな」と評してから、
「一種の呪いの様なものです。現代科学に照らすのは甚だ可笑しい様に思えるかもしれませんが、現代科学や医学が追いついていないだけで、確かにこの世界に存在する事象なのです」
それを聞いたミズは嫌味たっぷりに、
「私、学生時代から精神医学は苦手だったのよ。詐欺みたいでね」
篠畑は苦笑する。
「貴女だって知っているはずです。生の与え方を」
「セイね……。性は生を導く。それは医学の常識だわ」
「人が快楽に溺れる瞬間に生まれるものがセイならば、人間の本質もそこにあるのでしょう」
「それと呪いとやらが、どう関係するのよ」
「おやおや」
篠畑はわざとらしく肩をすくめた。何故わからないのかと言われているようで、当然ミズはムッとする。
「自己の存在証明ですよ。それが人間であるという縛りはどこにもない。例えば――」
「土竜、か」
「生殖で繋ぐ命に、どんな意味がありますか?例えば母が我が子に愛情を注ぐのは、己の遺伝子を持つ者であるのが一般的です」
篠畑はサンドイッチを齧りながら、
「自己を証明することに、命の意味があるとしたら、我々に流れる血にそんな呪いが宿っても可笑しくないでしょう」
「論理の飛躍ね」
「そうでしょうか。確かに倫理は無視しています。しかしそんなものは、文明の中で人間が勝手に作り上げた幻想です。トランスセクシュアル等は、文明社会が生み出した最たる現象でしょう。もっとも僕は、否定も肯定もしませんが」
ミズは苛立ちを隠さずに、篠畑を促すようにひとこと言い放った。
「で?」
「生命が繋がるのは性だけとは限りません。意志も人格も、血で繋がる部分があると考えるのはごく自然なことです。臓器移植を受けた人間が、ドナーの性格に徐々に似ていくという事例くらいはご存じでしょう」
「……」
ミズは視線を外へ向けた。カップルがたくさん歩いている。これから長い夜を迎えるであろう彼らの、一体何割が快楽を貪るために繋がり、その代償にセイを繋ぐのだろう。統計でも取ってやろうか。
「快楽の後には払うべき代償がある。しかし人間はその義務を放棄する手段を得た。何が起きるかは、自ずと想像がつく筈です」
「生まれてこない命からの、復讐とでも?」
「いささか短絡的ですかね。生命の誕生は結果に過ぎません。払うべき代償とは、抑圧される自己のことです」
「だから、私は精神医学には興味無いんだって」
篠畑は紅茶に手を伸ばした。
「そう言わずに。呪いのこと、知りたいんでしょう?」
「だから、要点だけ掻い摘んで話して頂戴」
「アフォリズムには相応しくない話です。それにね、ミズ」
篠畑は形勢逆転とばかりにやや威圧的な声で、
「貴女には理解できるはずですよ」
それは、彼がミズの実力や知力を認めている証拠である。まぁ、悪い気はしない。
「『抑圧された自己』が宿る場所が、何処なのかわかりますか」
「それが血だとでも?」
「そう。自己の存在を証明するために相手を傷つけ侵し、犯す。血の連鎖もセックスも、そういう意味では大差ありません」
「篠畑。あんた流に表現すれば、セイは血の連鎖、呪いと呼ばれる現象で、土竜の人格は葉山大志に感染した。しかしその後、彼は呪いから解放された。その意味するところは――」
そこまで言いかけて、ミズはハッとした。
「……そういうことか」
「まぁ、そうでしょうね」
そう言って篠畑は紅茶を口にした。
「わかっちゃいたんだけどね」
篠畑は苦笑し、
「負け惜しみにしか聞こえませんね」
「勝ち負けの次元じゃないでしょ。あの二人は、何かしらの形で連鎖を結んだ。血か、若しくは性交によって」
「ですからミズ、あなたのその唇からそんな単語が紡がれるのは、聞くに堪えないです」
「ほっといて。性分よ」
「はい」
ミズは長く息を吐いて、
「にしても……本当に、面倒なことになったわね」
「そうでしょうか」
「当事者に自覚が無いのは末期的だわ」
「『末期的』。いい言葉ですね」
「どこが」
ミズはウェイターを呼び付け、コーヒーを追加注文した。コートのポケットから煙草を取り出そうとして、そういえば全席禁煙だったことを思い出し、軽く舌打ちする。
「生きづらい世の中になったものね」
「生きづらい、ですか。貴女がそんなセリフを言っても、皮肉にしか聞こえませんね」
「ふーん」
ちっとも感情のこもらない声でミズは適当にあしらおうとする。だが、篠畑はその部分にこそ物事の本質があるのだと、語りだした。
「死者と会話する者が生きづらさを主張する。その時、話し相手の死者は、どんな心持でしょうね」
「傲慢だって言いたいの?」
「まぁ、僕も紙の上では死んでいますので」
ミズはこれ見よがしに頬杖をついた。
「どうするつもりよ」
「何がです」
「放置しておくつもり?」
篠畑はふっと息を吐いた。そしてニコリと笑い、
「どうでしょうね」
「篠畑。あんたの舞台は終わったはずよ。あの子の死と引き換えに」
その言葉に、篠畑は目を細める。
「そうですねぇ……」
そしてその笑みを消さないまま、
「あの子、死んじゃったんだよなぁ」
「何よ今更」
「それでも舞台は――『そこに在るもの』です」
「人が死んでいるのよ」
「貴女の言葉とは思えませんねぇ、ミズ」
篠畑は紅茶を飲み干し、
「今日はこの辺にしましょう。あまり遅くなると、貴女の帰り道が心配だ」
「心配要らないわ」
「返り討ちに遭って被害者が出るという意味です」
ミズは切れ長の目を篠畑に向け、今度はしっかりと睨みつけた。しかし篠畑は当然動じることなく、
「ミズ、認めるべきですよ」
「何を」
「セイという名の因果の存在を」
「……」
ミズは深く息を吐いた。ため息の類ではない。苛立ちを少しでも和らげるためだ。意味があるのかどうかは問題ではない。気が済むか済まないかの問題であろう。
ミズはバッグから赤いファイルを取り出し、篠畑の胸に突き付けるようにしてやや乱暴に渡した。これは本当は、リーサルウェポンとしてとっておきたかったが、こうなってはしょうがない。
「なら、これも『因果』だと?」
篠畑の目に、一瞬で暗い光が灯る。単なる嗜虐志向者のそれではない。その眼の色は、既に一線を越えたものだけが持ちうる、ある面では非常に純粋な色である。迂闊に触れれば、芯まで染められかねない。
闇そのもののような篠畑は、ゆっくりとファイルのページを捲りながら、詠うように呟いた。
「1、2、3。5、7……11」
「?」
「素数だけを数えて、暇つぶしするのもなかなか楽しいんですよ」
ミズはそれを無視しようとするが、
「2は孤独な素数。どこかの詩にありましたね。では、ミズ、裏切り者の素数をご存知ですか」
「話を滅茶苦茶にしないで」
「主旨はズレますが、論旨から外れてはいません」
「ヘリクツが板についたようね」
「それはどうも」
「わかってると思うけど、褒めてないから。知らないわよ、そんなの」
「そうですか」
篠畑は、一度溢れ出した己が身の生む暗部が溶けたようにすっかり暮れた夜の街に目をやった。彼は今、とても心地が良い。
「約束しておいて、それを果たせない。それ以上の裏切りが、世界の何処にありましょう」
「素数の話はどこいったのよ」
「3。不安定な数字です」
「は?」
「知っていましたか? 3で割られる数字は、各々の桁の数字を足すと、必ず一桁の3の倍数になること」
「今は算数の時間?」
「せっかく結ばれても、それが実のところで切り離されることがわかっている。そんな数字の羅列に、未来や将来は望めません」
「そういえば、ドクターは中原中也がお好きだったわね」
ミズはまた足を組みかえた。それは先程とはまったく意味の異なる、ミズの偉大なる不機嫌を代弁するものである。
「いい加減にしなさいよ」
「余剰且つ過剰な数字は、削除されるのが自然の摂理です」
ミズは理性で、ぐっと堪えた。どうやら話が繋がりそうである。
「セイが繋がるのは2の時だけ。しかし2は孤独な数字。この意味がミズ、貴女にならご理解いただけますね」
「人間の本質が、『孤独』だと? 随分と感傷的じゃないの」
「生命の、と言い換えた方が正しいかもしれません」
篠畑はファイルのとあるページを開き、首をちょこっと傾げた。
「ミズはこれを査収されたんですか」
「ざっと目は通したわ」
「では、ここもご覧になりましたね」
まるで試されているようで、ミズはひどく気分を害した。ミズとは対照的に、篠畑の機嫌はどんどん盛り上がっていく。
指さされた箇所を見ると、そこにはコピーされた顔写真、そして何らかのデータが貼られていた。先頭に小さく書かれていたのは、適当に振り当てられた通し番号と、見覚えある名前。
「……葉山クン」
ミズは思わずその名を口に出していた。
「No.318。彼の番号。僕はずっと、彼をそう認識していました」
「318。3の倍数か」
皮肉だわ、と吐き捨てるようにミズは言う。篠畑は朗々と語りだした。いや、若しくは騙りだしたのか、この場ではミズに判断しかねた。
篠畑曰く、
「不安定な自己。抑圧された本性。否定された欲求。すべてが人間を苦しめる、極めて愛しい事象です。そもそも自己とは他者があってはじめて認識される存在。言い換えれば、他者の数だけ自己が在る。それを人格の分裂と見做すか純増と見做すかは、ニュアンスの問題に過ぎず、あくまで主たる己は一つなのです。しかし人間には、生命には『2』が必要。そこで本能に従い切れない愚かな人間は、簡単な足し算を間違えました。自分と言う存在を見落とし、2を求めた結果が2+1=3、です。すなわち己こそが自身の認識する世界で最も不要な存在。いや世界の均衡を乱すという意味で、害悪ですらあると。それは当然、自意識の破壊に繋がります。そして自己の存在証明に固執する自我と、種を遺すという生命本来の役割との間には葛藤が起きる。
ここからが大事なのですが、この人間の命題とも言える罪業感と葛藤を、感じられる人間とそうではない人間がいるのです。感受性が強すぎるために、自分が一つの自己として生きることがとても下手な人々が前者。後者は、一つの自己を保てる程度の機微しか持たない、この文明社会に無駄に溢れている人種です。残念ながらそういう彼らには、僕は興味を引かない」
つまり逆を言えば、その『前者』に、彼の興味が――言わずもがな嗜虐性が――刺激されると言いたいのだろう。
『Psycho Doctor』とは彼のための呼称だと、ミズは内心で舌打ちした。ここで何か言い返してやりたくなったのだが、しかしミズは、自分が誰の正義も背負えないことを嫌と言うほどわかってしまっているので、そこで揺らぐような己ではないと即座に思考を切り替え、指をパチリと鳴らし、話し続ける篠畑を牽制した。
「あんたの講義を受けている暇はないわ」
そう言い、取り出した革財布からテーブルに万札を叩きつけた。
「ここは奢らせなさい。そしてさっさと黙って帰りなさい。塀の向こうに」
篠畑はわざとらしく肩をすくめ、
「……残念」
微笑んで、しっかりと奢りを受けることにした。
時計の短針が7に接近した頃、ようやくこの不気味なデートは終了した。
孤独な2と否定された1を足したら、裏切り者の3になる。この単純な足し算を、一体どれくらいの人間が間違えているのだろう。3とは、自ら構成するいかなる桁数の数字でも、己自身で解体できる。それを人間に置き換えれば、いかなる絆、契りや約束も、この数字の前ではバラバラにされてしまう現実。
東京の夜は、緩慢に更けていく。