第十二章 素数

同じ頃、東京に戻った葉山はその足で、捜査資料室にこもり、資料を漁っていた。だが、どこを探しても自分の求める資料が出てこない。最近の出来事のはずなのに、何処にも無いのだ。大竹が起こした綾香の事件のことも、そして、自分が殺した土竜のことも、そのきっかけとなった女性連続殺害事件についても、1枚の資料もないのは、どういうことだ。
その代りに、キャビネットの上に無造作に置かれていて目に付いたのが、『Versuchsergebnis』と走り書きされた、赤いファイルであった。
ドイツ語だろうか。葉山はその単語の意味がわからなかったが、なぜか寒気がした。これが第六感というやつだろうか。葉山は震える手で、そのファイルを開いた。するとそこには、入庁時に全員が受けさせられた、身体検査と心理検査の、特定の人物の結果だけがファイリングされていた。顔写真と略歴の下に、赤い文字で『Das Opfer der Gerechtigkeit』とある。またしても意味がわからないが、それ以上に彼を引きつけたのは、そこにある、他でもない自分と、大竹幸彦の名前だった。
「なんだ、これ」
薄暗い資料室で葉山は一人、そう呟いた。切れかけの蛍光灯がチカチカと、存在を虚しくアピールしている。
葉山は頭痛を覚えた。誰もいないはずの部屋に、いやこの世界に滲むようなうめき声が脳内に響く。あいつの声――

「決して、俺を……忘れるな」

それは、否定された『1』からの警告だったのか。葉山は自分を侵すその意識が、篠畑によって証明されてしまったことにまだ気づいていない。自分が自分であること。そこに結実して初めて人間は『1』を手に入れ、正しい数式を導くことができる。
若宮郁子は、揺るぎない『1』の持ち主であった。葉山が彼女に惹かれた最大の理由はそこにある。
篠畑が若宮を主演女優に選んだことも頷ける。――果たせなかった約束の、贖罪のためなのだから。
篠畑の描く舞台に、恭介の『娘』が選ばれたことは、必然かそれとも皮肉な運命か。『縁』という言葉があるが、それも一つの因果であろう。
「困ったな……」
篠畑は堪え切れないとばかりに口元を押さえ、
「恭介、僕はまた、君を裏切るかもしれない」
抑えても抑えきれない笑みを浮かべ、暗闇に彩られた檻の中へと消えた。

第十三章 決意