第二十一話 慈愛の罠(七)刃

「忘れ物だ」

開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた青年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。

「君は……」

若宮が若干あきれた表情で木内を見やる。

「『中途半端』は、お前の一番嫌いな言葉じゃなかったか」

「どういう意味だ」

「そのままの意味だよ。こんな大物ほったらかしにして、何のんびり田舎暮らしエンジョイしてんだよ」

青年——裕明は、木内の顔を目にした途端に、大きな声で

「パパぁ!」

と呼びかけた。

「え?」

「この通りだ」

若宮は鋭い視線を木内に投げつける。

「あの病院にいた医師はみんな匙を投げた。施設のほうも、入所延長措置を放棄したよ。この子は、お前の言うところの『本物の孤独』だ」

「パパ! ねぇパパ、ここは、どこなの?」

崩れ落ちそうになる両足をどうにか堪えて、木内は無邪気に駆け寄ってきた裕明を抱きしめた。裕明は手足をバタバタとはつらつに動かして喜びを爆発させる。

「……ごめんな……」

木内がどうにかそう伝えると、裕明はありったけの力で木内の肩を抱きしめ返した。人格こそ五歳児であるが、あくまで腕力は青年のそれである。

「痛い、いたたた、痛いって」

「えへへー」

木内は裕明の伸びすぎた前髪をかき上げてやると、その無垢な瞳に柔らかく言葉をかけた。

「ここは、お前の家だよ」

「わーい!」

「おかえり、秀一」

***

彼が今両目に灯している暗い燈火は、間違いなくかつての殺人鬼のそれである。彼はためらいなく美奈子の顎に手を添え、彼女に口づけを迫った。美奈子が拒絶すると、彼は短く乾いた声で笑い声を上げた。

「雪、本当に君はかわいいね」

「からかわないでください」

「俺が君の前で、本気以外で生きたことがあったと思う?」

「……」

七日間だけ地上に出て命を燃やすことを許された蝉たちは、もしかしたら知っているのかもしれない。一分一秒とて、命に無価値な瞬間などないということを。無知蒙昧な人間たちに、それを伝えるために、彼らはあんなにも悲壮感に溢れた声を絞り出すのかもしれない。

時折、その悲鳴たちが消える刹那が訪れる。その一瞬の沈黙に彼が油断するのを狙いすましたかのように、美奈子は精一杯の力で彼を突き飛ばし、白い部屋を飛び出した。

やはり蝉たちは何もかも知っているのか——一斉に鳴きやみ、風まで凪いだ。

美奈子が無我夢中に走って廊下まで出ると、あおいが山積みの書類を携えて外来棟から歩いてくるのが見えた。あおいはひどく驚いて、書類ごと小さな体を跳ねさせた。

「あー、美奈子ちゃん! どこに行ってたの? 院長が心配してたよ」

「すみません。私、木内先生に謝らなきゃならないです」

「え、なんで?」

あおいが首を傾げる。

「わかりません」

「なんじゃそりゃ。岸本さんもなんだか元気がなかったしなぁ。今日はそういう日なのかな。仏滅だしね、よく知らないけど」

「あおいさん、私、人を傷つけてしまいました」

「ん?」

「だから、本当は謝らなきゃならないのに、私……」

その場にしゃがみこんだ美奈子が途端にほろほろと泣き出すものだから、あおいはますます困ってしまう。

「あー、えっと、よくわかんないけど、わかんないからまあいいや。こっちおいで、お腹すいてない?」

あおいの問いかけに、美奈子の腹が弱々しく返答する。

「オッケー。今日はデイケアの午前のプログラムでちらし寿司を作ったの。みんなで食べようよ」

しかし美奈子は首を横に振る。

「私に、ちらし寿司を食べる資格なんてありません」

なおも泣く美奈子に、あおいは「もー」とため息をついた。

「じゃあ、ちらし寿司は嫌い?」

「まさか」

「ふぉふぉふぉっ、ではおぬしに、『ちらし寿司検定3級』を授与しよう」

「なんですかそれ」

「ちらし寿司のおかわりが一回まで可能な資格」

「えっ、一回!?」

「今日は割とがっつりと管理栄養士の川崎さん監修だからなー、めっちゃ美味しいだろうなー」

「そんな……」

「ほらほら、悔しかろう」

「2級になるには、一体どうしたら」

「そうだな。じゃあ、あとで一緒に、院長に謝りに行くことを約束しようか」

あおいがニカッと笑うと、美奈子は「ありがとうございます」とこうべを垂れた。

***

「僕、いけないことをしました」

木内と岸本の姿を見るなり、裕明は懺悔をするように、また力なくうな垂れるように頭を下げた。白い壁面に体をだらりともたれかけさせており、伸びすぎた前髪が涙のせいで濡れている。

木内は、裕明に静かに歩み寄った。

「何があったのかは、訊かないよ。裕明が自分で話したいと思わない限りは」

木内がそう声をかけると、その隣で岸本も優しく頷く。それでも裕明の声色はなおも暗い。

「僕、アタマだけじゃなくてカラダもおかしくなってしまったみたい。もう二度と、この部屋から出ちゃいけないんだって、思い知らされたんだ」

「うん、そっか。でもじゃあ、困っちゃうな」

「何が」

「お前がここから出なくなってしまったら、玄関の花たちの世話は誰がするんだい?」

「僕なんかに触れられたら、きっと花たちだって汚れてしまうよ」

木内はいつも裕明が使っているロッキングチェアに腰を下ろした。

「裕明。人間ってそもそも、美しい?」

「……ううん。全然違うと思う」

「だね。自分も同意見」

岸本の、裕明の漸くの破瓜の形跡としての脱衣を手際よく拾い上げた時の「洗濯しておくね」という言葉に、裕明は顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

しかし岸本はゆっくりと、萎れかけた花に水を注ぐような優しさで「謝ることじゃないよ。自分では驚きはしたかもしれないけれどね」と片手で裕明の頭を優しく撫ぜた。

「誰しもが通る道だからね。裕明、あなたの場合、それがちょっといびつな形だった。でも、それだけだよ」

岸本は裕明にそう伝えてから、一度だけ彼の瞳をじっと見つめ、微笑みを残して部屋を去っていった。

『でも、それだけ』。

そっか。それだけ、か。

「なぁ裕明。お腹すかない?」

木内は裕明のすべてを包み込むように声をかける。

「今日の昼ね、スペシャルなんだ。元ミシュラン2つ星シェフ川崎さんプレゼンツのちらし寿司」

――僕は、誰から許されようとしているんだろう?

「ちらし寿司ってさ、仕上げは刻み海苔もいいけど、そうそう、川崎さんから教わったんだけどね、粉山椒をひと振りしてやると、風味がぐっと引き締まるんだって」

僕は、誰に、謝っているんだろう?

「具材はね、奥多摩産の山菜と早採れきのこ。最高じゃない?」

誰に謝っているのか、そんなことすらわからずに、弁解の言葉ばかり浮かんでくる、自分の浅ましさが、本当に嫌です。

(知った顔をしないで。あなたは誰よりも愚かで、誰からも必要となんてされていないくせに、あんな醜態を晒してまで、まだ生きているじゃないの)

「……」

(生きているじゃないの。あなたは、生きているじゃないの)

「うるさい……」

(子守唄なら歌ってあげるよ、地獄で)

「……うるさい……うるさい……」

(堕ちろ、さっさと)

「裕明?」

木内が裕明の異変を察し、素早くロッキングチェアから身を起こすと彼を支えるようにしてその背中を優しくさすり始めた。それでも、裕明の中で沸き立つ過日の悲鳴の残響が彼を激しく責め立てるのをやめることはない。

(助けて、助けて、お兄ちゃん。苦しいよ)

裕明はもたれかかっていた白い壁を、怪我を負っている左手で強く殴打した。そんな様子を木内は決して咎めることなく、懸命に寄り添い続ける。

「深呼吸、できるかい」

「うるさい……うるさい」

「裕明、大丈夫だ。何も怖いくないよ」

(助けてよぉ)

「うるさいっぁぁああああ!!」

時計の秒針、差し込む陽光、吹き抜ける風、何もかもが、何もかもが自分に襲いかかってくる――そんなわけは、ないのだけれど――そんな感覚に陥った裕明の姿を、それでも木内は直視しないわけにはいかなかった。

「裕明、大丈夫だ。僕はここにずっといるよ」

(私たちもずっとここにいるよ)

「黙れ、黙れよ! 黙ってくれよ!!」

「裕明、誰が何と言おうと僕はお前を愛しているよ」

「ああああああーッ!」

木内はたまらなくなって裕明を強く抱きしめた。裕明の苦しみは自分には決してわからないけれど、わからないからといって見捨てることと知ったつもりになるかのことは脈絡がまるで異なることを、よく理解しているからだ。

裕明の中で大合唱が起きている。それは、「彼」に殺された者の悲鳴であったり、「彼ら」を殺した者の笑い声であったり、あるいは全てを生み出し統べる「名もなき戯れ」の嘆きであったりして、どこまでも残酷な不協和音を奏で続ける。

脳とは小さな宇宙だという。裕明のそれは今、あまりにも開かれすぎている。あらゆる痛みや苦しみを飲み込んで、果てなく膨れ上がり、彼の自我をみるみる侵食するのだ。

木内には痛いほどわかっていた。裕明に対して、既存の精神医学というものが何の役にも立たないことは。それでも、そばにいてほしかった——そばに、いたかったから。

彼の前では、医師などではなく、一介の人間としているべきだと思った。木内は裕明がぼろぼろと流す涙を節くれだった親指で拭ってやる。

「そうだね。つらいね」

やがて興奮状態から錐体状に落下させて糸の切れたパペットのようにふつと意識を手放した裕明を、木内はどうにかかかえてベッドに寝かせた。

「恋は極上の劇薬、か……」

裕明の頬には、一筋の涙が伝っていた。

***

「ごちそうさまでしたー」

「美奈子ちゃん、食べっぷり最高だね」

奥多摩よつばクリニックの管理栄養士にして元都心の高級2つ星レストランで修行経験のある川崎弘毅が、感心した様子をみせた。美奈子は誇らしげにカラになった茶碗を掲げる。

「粉山椒のアクセントがいいですね。きのこの風味を見事に引き出しています」

それを聞いたデイケアボランティアの女性、織本が「美奈子ちゃん、食レポうまいわねぇ!」とはやすと、その場が和やかな笑いに包まれた。織本はこの近所で独居している高齢女性で、このクリニックとの出会いによって居場所を得た一人である。

その笑いの輪から一人外れて、終始つまらなそうにちらし寿司をつついている青年がいる。岸本に襲いかかろうとして裕明——いや智行にやり込められた件の大学生、山下一久だ。

自慢の料理を不機嫌につままれてはたまったものではない。川崎は「山下くーん」と声をかけた。

「料理ってね、雰囲気もコミコミでの味なんだ。そんな顔されたらちらし寿司の風味に差し障るんだよね〜」

川崎もまた、都心での競争や足の引っ張り合い、見栄の張り合いに疲れてこの地に活路を見出すべくやってきた一人だ。ちなみに奥多摩クッキーフォーチュンズでは3番捕手を務める。

川崎はポケットから小さな瓶を取り出すと、「山下くんにはコレ、特別にどーぞ」と青年の皿のちらし寿司に粉末を振りかけた。伝家の宝刀、乾燥トリュフである。

「そんな暗い顔してちゃ悲しいな。せっかくのミシュランちらし寿司が泣いちゃうよ」

「……くだらねぇ」

「ん?」

「他のやつらはみんな、ガッコー行ったりカノジョ作って好き放題してんのに、俺はこんな場所でおままごとだよ。ほんと笑えるし」

「おままごと、ねぇ。別にどう言おうといいけどさ、イキるのは自分で炊事家事ぜーんぶ自分でこなしてからにしなよ」

山下は川崎を睨みつけながら黙って席を立つと、シンクの中からまだ洗っていない包丁を粗雑に手に取って「っるせえ‼︎」と喚きながら振り回しだした。

周りのデイケア参加者たちは一様に青ざめてしまう。だが川崎は山下の蛮行そのものよりも、大切な調理道具で人を傷つけようとする行為に怒りを覚えた。

「いちいち説教たらしいんだよ‼」

「調子づくなよガキが。自分が何してるかわかってんのか?」

「わかんねぇよ、何にもわかんねぇ。もうどうでもいい!」

「ふざけんな!」

立腹した川崎が、山下の腹の懐へ利き手と逆の左手で作った拳を躊躇なく突っ込ませる。その衝撃でしたたかに体を壁面にぶつけた山下の手から、包丁が宙を舞って飛んでいく。その放物線の先にいた織本が声も上げられずに目を閉じた――刹那、一つの影がその女性を凶器から護るように覆いかぶさった。

「アッ……!」

織本も、デイケアに参加していた他の患者も、川崎も、山下さえも絶句した。

「美奈子ちゃん!!」

川崎が顔面を蒼白にして叫ぶ。とっさに織本をかばった美奈子の右腕を、包丁がかすめて、彼女は流血していた。