第十一章 因果

「それはどうかな?」
突如、自分の思考を遮るかのように聞こえたその言葉に、葉山は我が耳を疑った。目を上げると、通り過ぎる車の逆光で一つの影が浮かび上がった。雨けぶる夜なので明瞭には判別できなかったが、その声と、何よりその言葉で葉山は、相手を瞬時に睨みつけながら、どうにか平静を装い、冷笑と共に皮肉を放った。
「まるで心を勝手に読まれた気分だな」
「挨拶くらいさせろよ、葉山」
「お久しぶり、とでも?」
それはもしかしたらただの強がりにしか見えないかもしれない。だがしかし、葉山はそれを誤魔化すために一歩、相手ににじり寄った。そしてわざとらしくため息混じりに、
「お前に会うのは、なぜか雨の日ばかりだ」
「そうだなぁ。湿った話が余計に腐りそうだ」
「既に笑い種だよ」
「……葉山、お前随分と変わったな」
葉山は笑みを引っ込め、相手を強く牽制する口調でこう言った。
「どういうカラクリだ」
「簡単さ」
影は声色だけでも、こちらを嘲笑っているのがよくわかる。
「俺はお前のセイを受けた。俺は、お前そのものだ」
忌まわしい記憶が葉山の中に鮮明に蘇る。愛を求め生を奪い、生を求め愛を奪った時の自分の姿が。あの時の自分は、一体どんな目をしていたのだろう?今、目の前にいるこの影のように、歪み濁った眼をしていたのだろうか。
葉山は銃に手を掛けようとした。だがそれを尚も嘲るように、
「無駄だ」
葉山は思わず舌打ちした。
目の前には確かに、あの時自分が手にかけたはずの大竹幸彦が立っていた。見慣れた顔に、しかし懐かしい情など微塵もわき上がらない。脳裏に甦るのは、意識と意識の狭間に内在する苦悶と後悔と憎悪。葉山はそれらをひた隠しにし、いやそれらに支配されないように堪えながらこう問いかけた。
「なぜお前が此処にいる」
「わからないか?」
「答えろ」
「見ればわかるだろう」
葉山の視線と疑念を釘付けにしたのは、大竹の両手だった。
「お前、その手――」
「わかりやすくていいじゃないか」
そう言って大竹は嗤い、腕を葉山に突きつけるように向けた。
「これがお前の罪だ」
大竹の手、いや爪から滴る血が、路傍の排水溝に流されていく。一緒にその『罪』とやらまで流れ落ちたら、どんなにいいだろう。
しかし雨は、葉山の虚勢を露わにするだけで、その冷たさは弱い彼に武器を握らせようとしてしまう。
「なぜあの女性を殺した」
「愚問だな」
葉山は腰元の銃に手を宛い、大竹を睨み続ける。しかし大竹は、その呪われた爪先で葉山を指しながら、
「お前がそうしたかったからだ、葉山」
「なんだと?」
「刺した瞬間の快感は、お前もよく知っているはずだぜ」
大竹は急に啓示を宣告するように厳かな口調で、
「――俺にセイを与えた瞬間のようにな」
それに相応しくない言葉を放った。
「……」
言葉に詰まる葉山。自分の『罪』は、『罰』となってこうして目の前に現れ、犠牲者を出しているというのだろうか。
「もう一度言う。俺は、お前だ」
その姿。三本の爪。血塗れたそれは、雨に濡れても尚、路道を通過する車のバックライトに照らされて赤黒く照っている。大竹は、その左手の爪先に舌を這わせた。まるで、土竜が身繕いをするように。
葉山はそれを見ても、蔑みきることができなかった。その姿が、己自身だという彼の言葉が本当ならば、葉山はまさに今、自分と向き合い、葛藤や闘いへの扉を開けたことになるからだ。
大竹は口の中で血を味わいながら、呼吸と共に、
「これから起こることはすべて、お前が望んでいることだ」
こう吐き出した。更には、
「逃げ出すも踊るも、お前次第だ」
「……」
「再び舞台に上る勇気はあるのかと訊いている」
葉山はその言葉に、強い戸惑いを覚えた。
なぜなら、自分を舞台から降ろしてくれたのは、他ならぬ彼女だったらだ。彼女が、その尊い命と引き替えに、自分はあの馬鹿げた舞台から自由を得た筈だった。
しかし、現実はどうだ。今こうして自分の過去とも言うべき存在、自分の罪の具象体が目の前にいるではないか。
なぜ、自分だけ生き延びてしまったのか。彼女が伝えたかった愛と正義は、本当にこの胸に在るのだろうか。
いや、そもそも自分は決意したのだ。この魔都市で独り、戦うことを。それは彼女への弔いにはならないかもしれない。武器を抱くことは彼女の望みではないかもしれない。しかし、それでも、『守りたい』。彼女の想い――自分が自分を取り戻すこと――を。
舞台へ上がることが即ち勇気であるとは到底思えないが、ここで逃げることは、自分と、彼女に目を背け裏切る行為に等しい。
もう信じるしかないのだ。自分自身を。
ここで下す決断に、どんな結末が待っているというのだろう。
それでも、彼は、進まねばならないから。
葉山は静かに、自分に言い聞かせるように、また目の前の『自分』に挑みかかるような口調で、こう断言した。
「今度こそ、終わらせてやる――この手で」
それを聞いた大竹は、一瞬だけ口角を鋭く釣り上げると、葉山に背を向けてゆらりゆらりと歩き出した。その影は、雨煙に紛れてすぐに見えなくなった。
葉山は後を追うどころか身動きがとれなかった。奇妙な感覚だった、自分の過去が自分の前に現れ、呪われた手で殺人を犯した――その事実は、決意をしたばかりの彼の足を竦ませるには十分すぎた。
暖かな春雨の夜、再び出会った二匹の獣。舞台を陰で繰る演出家の姿は未だ見えない。

第十二章 素数