第十章 沈黙の詩

山手線の中で、ミズは周囲の視線を跳ね返すように、泰然として足を組んでいた。その隣には愛らしい、少女と呼ぶにはやや大人びた女性が、それでも可愛らしい仕草でミズにくっついている。駅が過ぎて新たな乗客が現れる度、二人は好奇の視線の晒しものになったが、ここは天下のミズである。そんなものに屈するはずもない。
綾香は未だに歌い続けている。細々とではあったが、あのどこか悲しいメロディを紡いでいる。その肩をミズがしっかりと抱き、綾香はそれに委ねているのだ。
籠の鳥、とは言ってくれたわね。どこまで弄べば気が済むのかしら、とミズは篠畑を内心非難するのだが、不思議と縁を切れないのはそれが切っても切れない腐れ縁であることは言うまでもないが、それ以上に、もしかしたらミズは篠畑のことを『唯一解剖できない』存在として認識しているのかもしれなかった。誤解の無い様に付けておくが、彼女は愛した人でさえ解剖した人間である(人生最初の解剖がそうであったという過去には敢えて深く抵触しないが)。決して篠畑に愛情を持っているわけではないことは証明済みだが、それにしたって彼だけは解剖できない。何が出てくるかわかならい。メスの方が可哀想だ。そんな嫌味すら浮かんでしまう。
もう一人、『解剖したくない』人間ならいる。それは彼女自身が自覚の上で認めるのを拒否しているのだが、『あの面影』を重ねてしまう、若き刑事のことである。思いだす度に自分もまだまだだなと、ミズはすっかり癖になった自嘲をするのである。

明らかに周囲から浮いていた2人だったが、視線を送るだけ送って我関せず、なのはこの無機質な都会の短所であり、長所でもある。無責任なものを相手に放り投げて、“後は知りません。被った方が悪いんです。”そんな価値観が平然とまかり通っている。それくらいがちょうどいいとミズは思う。どうせ皆通り過ぎていくのだ。勝手に去っていくのだ。自分の行動・言動が波及させるものの重要性など、誰もが無視すれば意味を成さなくなる。
駒込駅から乗ってきた酔っぱらいとて、例外ではなかった。酒の勢いもあってかすぐに彼の標的は、綾香に向けられた。中年のサラリーマン風の男性だった。
「嬢ちゃん」
酒臭い息で綾香に接近する。ミズは無視するし、綾香は中空を見上げてぶつぶつ歌っているだけだ。サラリーマンは眉毛を跳ね上げると、
「おい、聞いてるのか。こんなところでなぁ、うるせーんだよ」
ミズはあくまでも視線を合わせない。こういうのは無視するのが一番の方策だと心得ているからだ。
「るせーんだよ!」
うるさいのはどう見たってその男である。しかし、ミズも綾香も反応しないことをいいことに、酔っぱらいは言動をエスカレートさせる。ミズのワンピース姿を舐めるように見てから、
「色を売りやがって。いい商売してるな」
「……」
「そっちのも、商売道具か?」
と、綾香を指さした。さすがに気分が悪い。しかし、都会のど真ん中の電車の中で一際目を引く2人であったから、こんな輩に絡まれるのは想定の範囲内ではあった。ミズは綾香に、
「次で降りるわよ」
と軽く告げた。
完全に相手にされていないことに気分を害したサラリーマンは、ミズの隣の空席(夜の山手線ではあったがそれもそうだ、歌っている女性の連れの隣に人が座るはずもない)を蹴り上げた。これでさぞかしビビっただろうと男が得意げに顎を剥いたのだが、ミズはゆっくりと足を組み換えて、綾香の肩をぽんぽんと叩き、
「もうすぐ着くわ。行きましょ」
至極冷静にそう言われたので、男はいよいよ腹が立ち、恐らく降車駅でもないのに2人に付いてきたのだ。2人の歩調は、ミズが綾香に合わせているのでさほど早くない。そのすぐ後ろをひたひたと男が付いてくる。
改札を出て、ミズはそのままマンションには戻らず、ポケットの中のメスを確認してから歩を遠回りの道へと向けた。コンビニを過ぎると住宅街、それを抜けると都会にしては珍しく街灯の少ない道が現れる。それこそ変質者が出てもおかしくない場所であるが、片づけるのならいっぺんに済んだ方がいい。
道の奥まった場所で、ミズは立ち止まった。ひと気の少ない場所だ。すっかり勘違いした男は、ニヤニヤ笑っている。
「こんな場所でか。物好きだな」
「それは、どちらかしらね?」
ミズが、男の思惑とはまったく違う意味で挑発する。綾香は尚も歌を止めない。ミズに隠れるようにしてはいるが。
「このアマ!」
男は拳を振りかざしながら2人に襲いかかった。ミズはどこまでも冷静だ。勝算ならある。
――ミズがポケットのメスに手をかけたその刹那。乾いた音がその場に響いた。
「!」
聞いたことのある音である。
ミズは恐るべき頭の回転の早さでその状況をすぐに理解した。
その場に派手に倒れる男。ミズは解剖医の習性か、ざっと男の体を見て、彼が負った傷が致命傷ではないことを確認する。そしてすぐに、奥まった道のさらに奥、闇の向こうを見据えた。やがて静かに、煉瓦道に靴音が鳴り始める。夜の静寂に、冷たい金属音が鳴り響く。
「……あら」
先手を打ったのはミズだった。
「お久しぶりね」
ミズは決して冷静さは失わない。しかし動揺はした。
現れたのは、葉山大志であった。スーツに血を付着させたままの恰好で、ゆっくりと歩いて現れたのだ。そう、まるで死を宣告しにきた死神のように。
「……何事かしら」
ミズが茶化すも、葉山は余裕の笑みを浮かべたままだ。ミズは足もとに倒れて気絶した男を踏み付けると、
「私を相手にしようとは、ずいぶんと大それたお立場ね」
そう言って艶やかな唇を上向きにした。ミズは、どこまでも高慢で美しくあるべきだ。ミズは綾香を庇うように引き寄せ、
「この子に手出しはさせないわよ」
「ミズ、お久しぶりです」
「随分と顔色がいいじゃない。いいもの食べてるみたいね」
揶揄したつもりが、葉山はクスッと笑った。ミズは当然面白くない。
「医師の言いつけは、半分は本気で聞いておくことね。あの時、言ったはずよ? 『私が、許してあげる』と」
「そうでしたね」
「貴方、全然わかってない」
「そうでしょうか?」
「教えて差し上げても良くてよ。ただし、対価は戴くわ」
「ふーん……」
葉山は興味無さそうに銃を弄ぶだけだ。
「僕は僕の答えに、もうすぐ辿りつけるんですが」
「あらそう」
ミズは、彼の思考を凝固させるために、こんなことを言った。
「じゃあ、鳥籠を満たす方法をご存じなのかしら」
「鳥籠?」
「正義と呼ばれるものの定義のことよ」
「正義……」
葉山の目の色が一瞬にして変わる。もう何度、彼自身は体験しているであろうか……自らの思考が制御不能に陥り、滲み、散逸していく様を。それは一つの人格の崩壊を直接意味はしないが、理由にはなる。人間が理性を手放すその瞬間を、篠畑は嫌というほど見届けてきたし、見守ってきたし、見送ってきた。そして、味わってきた。篠畑は言う、これはただの『人形遊び』だと。そう、篠畑にとって『彼』は格好の人形であった。それを、どこまでも丁寧に遊び尽くされたのである。それこそ、知らない場所など無いと言わんばかりに。
葉山は頭を押さえて一瞬だけよろめき、しかしすぐに足に力を入れてぐっと踏みとどまった。
「愚問だな」
ミズはそんな彼の様子を冷笑した。
「正義とは即ち俺だ――それ以外は認めない」
「それは困ったわね」
ミズは大げさに肩を揺らす。その胸元では綾香が祈るような顔でミズを見つめている。
「じゃあ答えは教えられないわね」
綾香の頬を撫でながら、ミズは意地悪く笑う。
「撃てるものなら撃ってみなさい」
それは、高らかな勝利宣言であっただろうか?
「無駄だけどね」
「何故だ」
「そんなこともわからないの」
「なんだと?」
ミズは言葉によって葉山の精神を掻き乱し、
「あら、御手が震えてよ」
結果、彼に銃の焦点の定まらない両上肢の震えを導き出し、
「絶対に、貴方は自力では答えに辿りつけない」
言葉でとどめを刺す。彼女もまた、そんな『言葉の力』を知っている数少ない人間の一人である。
「何故だ!」
葉山は言うことをきかない自らの右腕に噛みついた。それこそ、肉食獣がそうするように。フーと腹の底から唸り声を上げ、ミズを睨みつける。血で汚れた顔を見たミズは、
「はしたないわね」
自分からけしかけておいて、そんな暴言を吐いた。
「迷っているのならヒントを教えてあげるわ。『一番貴方を想っている人の言葉だけを信じること』」
「……」
「言葉なんて無尽蔵に出てくるものよ。掘るだけなら犬にだってできる。でもね、放つ瞬間に人間は意味と責を負うの。そういう生き物なの」
「それが……どうした……」
「撃てない銃はただの鉛。下手に身に着ければ沈むわよ」
「……」
「貴方を待っている人がいることを、忘れないことね」
葉山は激しく流転する思考に、意識を保つことが不可能になったのか、それとも、ミズの言葉によって観念したのか定かではないが、その場で目を閉じて構えていた銃を力なく下した。
ミズはそれを視認すると、ハイヒールで地面をカツンと言わせ、
「飽きられた玩具は捨てられるだけよ」
そう言い捨てた。