第十章 沈黙の詩

ここは他でもない魔都市である。何が起きてもおかしくないということは、何が起きても驚く必要が無いということだ。尤も、驚愕というのは不随意に起こるものであるが。
篠畑は目を閉じた。じっと少女の声に耳を傾けている。
「……どうしてあなたはあなたのままでいられなかったの?」
そうして少女の一句一句が、
「どうして私の歌を歌ってくれなかったの?」
乾いた廊下に悲鳴の様に響き、彼に歪んだ快楽を与えるのだ。
ミズは片眉を上げた。揺さぶりを掛けようと目論んだのに、しかし篠畑は冷静さを決して失うことなく、静かにこう言い放ったのである。
「……いいですね……そう、もっと詠いなさい」
「篠畑!」
ミズは整った眉間にしわを寄せて思わず叱責した。
「何を口走るかと思えば……呆れたわね」
「何がですか」
「何も感じないの? 『彼女』が歌っているのに」
言ってから、ミズはしまったと舌打ちした。彼女の危惧通り、篠畑の表情にみるみる生気が戻り、彼は「ふっ」と息を吐き、こんなことを言った。
「……感じないわけないじゃないですか」
「あ、そ」
ミズはつまらなそうに会話を打ち切った。
廊下にはしばらくの間、宝飯綾香の物悲しい歌声が流れていたが、この空気に気圧されていて茫漠とした中からようやく自意識を取り戻せた若宮が、彼女に問いかけた。
「綾香さん、貴方は、何者なの?」
先ほどと同じ質問だが、意味合いがまったく違う。
「……lu……lululu……」
若宮の腕の中で歌い続ける綾香。篠畑は近くに据え置かれたソファに身を沈め、目を細めてその様子を見ている。ミズはそんな彼の姿を、蔑むように睨んでいる。
美しい歌声だけが流れる張り詰めた空間で、若宮は自分の投げかけた疑問がいかに意味を成さないかを痛感させられた。そう、彼女は彼女であって、他の誰でもない。

例えば、宝飯綾香というのはその肉体に付けられた名称に過ぎず、彼女がその名を否定すれば、そこに新たな存在が生まれる。しかし己の名を否定するというのは、己の自意識と世界を繋ぐ糸を断ち切る行為である。その覚悟もなく、己が名前を忘却することがある。忘却というのは即ち、己を失う行為である。それと同時に、耐えがたい体験から自分を守る防壁でもある。そのバランスを失った時、または慢性的に欠く場合、人は発達し過ぎた脳から別の世界を創造しうる能力を発揮する。しかし、それはあくまでも虚構であり、都合のいい物語を一つ紡ぐに過ぎない。虚実皮膜の世界と繋がることは至って容易で、しかも便利だ。故に人間は溺れる。故に人間は囚われる。
髪の毛よりも細い神経が複雑に絡み合って視覚化・具現化される精神世界は春に降る雪よりも脆く、儚い。
故に、人間は、壊れる。