第十章 沈黙の詩

200×年4月。新宿で女性の変死体が見つかった事件があった。被害者は強姦目的で殺されたらしかった。現場では、眉をひそめたり吐き気を催す刑事が多くいた。遺体が発見された時、その足は切断され、局部から胸元にかけて切り裂かれた痕が残っていた。
「……ひどいな」
土竜はそう呟き、軽く手を合わせた。
「仏さんのためにも、犯人を必ず見つけような」
土竜がそう言って、最近コンビを組み始めた新人刑事の肩をポン、と叩いた。しかし、新人からは応答が無い。
土竜が訝しげに新人を見ても、彼は俯いたままだ。
「どうした。吐き気でも起こしたか」
「……」
「おい」
「う……」
なんと、新人は肩を震わせて、泣いていたのだ。
「こんな……酷すぎる……」
「……これからこんなことには、いくらでも遭遇するんだぞ。いちいち泣いていたら涙腺がもたねぇ」
「でも……」
「ま、今のその気持ちを大事にするこったな」
「……はい」

それから程なくして犯人は検挙された。
「あの女が誘ってきたんだ」
犯人はそううそぶいていた。自分の性欲を無理矢理に満たした挙句捨てておいて、なんて身勝手なことを言っているのだと、葉山は憎悪の目でずっとその男を睨んでいた。先輩である土竜もまた、休憩時間に煙草を不味そうに吸いながら、
「気分が悪ィ」
と吐いていた。
だが、後日卑劣な犯人に下された判決には、執行猶予がついていた。この結果に、汚れた金がどこかで動いたのではないかという噂がまことしやかに流れた。
「なんでですか!?」
葉山は怒りを隠すことなく、そのぶつける先が間違っていることも承知で土竜に食ってかかった。
「どういうことですか! なんで猶予がつくんですか!?」
「……葉山」
「意味がわからない! 意味がわからない!」
土竜は、喚く葉山の頬を打った。
「越権行為だぞ。俺たちが口を出していい問題じゃない」
「な……じゃあ先輩は、納得してるっていうんですか!」
「……」
土竜は息を長く吐くと、「バカ野郎が」と呟いて部屋を去った。後に残された葉山は、自分の頬を押さえながら、こみ上げる怒りを何処にも打ちつけることができなくて、机をドンと叩いた。
「正義は、何処にあるんだ!?」

きっかけが小さくても、綻んだ部分から終焉を迎えるものが、この世界には実に多い。小さな亀裂が取り返しつのかない裂傷になることもしばしばだ。しかし、それが根幹を揺るがすものであったとしたら、その人格は危機を迎える。
虎口に瀕したとき、破滅を逃れようと足掻く能力が、脳の発達した人間には起こり得る。それが発達し過ぎたせいで人間は、他の動物には無い『苦悩』から逃れられなくなったのである。