第十章 沈黙の詩

手が温かい人間は、心が冷たいのだという俗説を聞いたことはないだろうか? この俗説を信じるとしたら、篠畑の手のぬくもりは、まさに彼の心に反比例しているものなのだと言い換えることができる。しかし、この『冷たい』という概念は、例えば冷血、怜悧、冷徹と言った言葉で表されるが、これらの言葉が彼に当てはまるかは甚だ疑問である。
何故なら、彼は世界を愛している。果てなく愛している。しかしそれが不可能だと解してしまったが故に、どこまでも深く憎んでいる。
『愛憎』という言葉の意味しているところは、それが表裏一体であることだけではなく、その同一性と両価性の苛烈な葛藤である。
葛藤から逃れるために人は自らを正当化する。そのための方便を見つけるためならば、人はどんなに年齢を重ねても形振り構わない。発達し過ぎた脳内で巻き起こる葛藤の嵐は、人の理性を攻撃し、破壊をもたらすという皮肉を生んだ。
「37.9度。ひどい熱ですね」
「………………」
若宮はあまり寝心地の良くない、刑務所内の処置室のベッドで横になっていた。朦朧とする意識の中でも、若宮は自分の無防備さを呪った。こんな醜態を、あろうことか篠畑に見せることになるとは。
「何も気負うことはありませんよ」
「……何がですか」
「病の前で等しく人は、治るべき僕の患者です」
その患者を死に至らしめてきたのはどこの誰だ、と言いたくなったが、それこそ篠畑の口から余計な嗜好が発せられかねないのでやめておく。
「そうですねぇ……」
篠畑はヒートから2つ、赤と白の錠剤を取り出すと、若宮に手渡した。
「はい、解熱剤」
「………………」
「そんなに疑わなくても。毒なんて入っていませんよ。まぁ尤も、薬と毒は紙一重ですけどね」
「……いたんですか?」
「何が、ですか」
「服毒自殺させた患者」
「いましたよ」
悪びれもせずに篠畑は答える。いや、悪びれもせずというよりも快感もってそれを思い出しているようですらある。
「37歳のサラリーマンでした。でも、僕はちゃんと言ったんですよ? 『決して酒類と一緒に30錠以上同時に飲まないで下さいね』と」
「……」
こういう話を聞くと、なぜこの人間に死刑判決が下ったかがわかる気がする。
「薬は、結構です」
「そうですか。気が向いたら、言ってください。いつでもどちらかを差し上げましょう」
「どちらか?」
篠畑は首を傾げただけだ。若宮は、熱でうなされたせいで見た悪夢だと思って、今の言葉を忘れることにした。