第九章 彼は気まぐれにキスをする

若宮は動揺を必死に抑えながら、再び咳払いをして
「おはよう、葉山君」
と挨拶をした。途端に背後から、痛い視線の集中砲火を浴びるのだが、若宮は毅然と無視する。
葉山は一歩一歩ゆっくり若宮に近づくと、持っていた花を若宮の机の上にそっと置いた。若宮はその花の名前を知らない。
「カンパニュラ。春の花だよ」
葉山は微笑んで言う。
「綺麗でしょ」
「……」
若宮は花に目もくれず、葉山をじっと見た。重なる面影――篠畑の微笑みが浮かぶ。
「おい若宮、どういうことだよ」
大竹がためらいがちに声をかける。すると、その声を皮切りに、勘違いした周囲の無責任な声が一斉に飛んできた。そのざわつきは、しかし若宮の耳には入らない。否、入れない。それどころではない。外野の野次など騒音以下だ。
大竹は自分の言葉で端を発したことを申し訳ないと思ったのか、淹れかけのコーヒーをそのままにして
「おい」
と葉山に声をかけ、そのまま首根っこを掴んで廊下へ引き摺って行った。周囲の視線が今度は大竹に集中する。若宮は自分の机に置かれた花に視線を落とした。
薄紫色の花びら。
若宮がダンマリを決め込むと、周囲はつまらなそうに勝手に解散していった。ただ各々の仕事に戻るだけだ。葉山の処分違反には誰も触れもしない。そういう『面倒なもの』には関わりたくないのだ。責任なら、他でもない名前を呼ばれた若宮がとるべきなのだ。そんなことは、若宮本人が一番わかっている。しかし、いざこういうことになった時、どうすればいいのか心の準備のようなものがまだ、彼女にはできていなかった。
カンパニュラの花を手にする。花の一つ一つは掌に収まる程度の大きさだ。それが鈴なりに咲いている。綺麗と言えば、綺麗だが。その色に、まるで纏わりつくような感情――何とも奇妙な――が醸されているようだ。
篠畑にここで連絡をとるのは危険だろう。ここで彼とコンタクトを取ることは事態を悪化させる気がする。それこそ彼の言う『舞台』とやらの上で弄ばれかねない。しかし、このまま放置したってどうしようもない。ならばここは、自分の力でどうにかしろということなのだろう。
若宮はしばし考えてから、まず葉山本人から話を聞くことにした。ふー、とため息をついて気持ちを整えると、大竹が淹れかけたコーヒーを一口飲んで(インスタントならではの非常に淡白な味であった)、若宮は部屋を出た。