第九章 彼は気まぐれにキスをする

ミズ・解剖医の朝は遅い。ベッド傍の目覚まし時計が鳴りやんでから二度寝するのが習慣だからだ。睡眠薬は導入剤に過ぎず、眠れてしまえばいくらでも眠れる。特に昨日のようにお酒の入った翌日は尚更だ。
土曜日、彼女の表向きの仕事――都内某所のクリニックの内科医――はお休みである。『本業』は彼女のペースで行えるので、彼女はしばらく惰眠を貪っていたのだが、携帯にメールの着信音がしたので起きることにした。
曲は、ハイドンの『弦楽四重奏』。ハイドンは生涯70曲近くの弦楽四重奏を作曲したが、その着信曲がどの作品なのかをミズは知らない。というよりも興味ない。一番うるさくない曲を選んだらそうなっただけだ。
手を伸ばして携帯の画面を見る。メールは、本業方の人間からだ。土曜日の朝から煩わしい、と内心思ってしまうが(生首を持ち帰っている人間のセリフではない)、しょうがなくメールを確認する。そこには事務的な連絡とともにこんな文面が踊っていた。

代官山3丁目の公園で、大量にモグラの死体が発見された。悪質ないたずらだとは思うが、発見した小学生はひどくショックを受けている。死体はいずれも刺傷による失血死とみられるが、何せモグラだ。正規のルートでは解剖を依頼できない。

メールはこのように終わっている。『正規のルートでは依頼できない』から、自分に御鉢が回ってきたのだろう。にしても、こんな頼み方があるか。せめて『お願いします』の一言でもあれば、いくらでも喜んで解剖してあげるのに。しかも人間ではなく、モグラだ。
……モグラ?
「祥子さん、起きてる?」
ミズは気だるげにクローゼットの中の生首に話しかけた。
「仕事が入っちゃったの。ちょっと出かけてくるけど、あなたどうする」
しかし、一向に返事がない。ミズは準備のためにベッドから這い出て、クローゼットを開けた。そこには、当然首が転がっているのだが、
「祥子さん?」
祥子は死してなお、呑気に眠っていた。ミズはあきれて彼女を文字通り叩き起こしてやった。
「痛い!」
祥子が起きぬけに文句をつける。
「嘘おっしゃい。痛みなんて感じるわけないでしょう」
「嫌ね、女子に暴力振るうなんて最低」
「女子、ねぇ。生きてる時はさぞかし丁重にされたのね」
「ふん!」
祥子は朝からテンションが高い。ミズの軽口に本気をむき出しだ。
「丁重にされてたら、死んだりしないわよ」
「それもそうね」
ミズは手早く化粧を終え、ようやくストッキングを履くと(つまり今の今まで下着姿だったのである)気合いを入れる時に着る赤いワンピースを着た。
なぜかはわからないが、胸騒ぎがする。この感覚は、いつか味わったあの日のざわめきに似ている。佐伯愛子と『会話』したあの時の感覚に。
ミズは保冷剤を冷凍庫から取り出し、鞄に祥子ごと詰めた。
「あらやだ。少し腐敗が進んだのかしら」
「勝手なこと言わないで!」
「自然の摂理よ」
その摂理に反した域に生きる彼女の言葉である。説得力は皆無だ。ミズ自身、それをわかりきった上でそんなことを言うのである。
「代官山で妙な事件が起きたの。あなた、きっと助けになるから一緒に来て」
「今日は電車の中で騒いでやるわ」
不機嫌な祥子はミズを困らせてやろうとするのだが、ミズはさらっと
「一番恥をかくのはあなたよ」
有無を言わさない雰囲気で祥子を圧倒した。祥子は諦めてダンマリする。
ミズは玄関を出て初めて、雨が降っていることに気づいた。傘をさせば、不自然な鞄の膨らみも消える。
ミズの携帯には立て続けにメールが入ってくる。仕事用なのでしょうがないが、半ばウンザリもする。
代官山三丁目の公園にて、大量のモグラの死体が発見された。それとほぼ場所と時を同じくして、代官山のフラワーショップで強盗事件が起きたらしい。ところが金品は一切盗まれていない。被害者は、行方不明。なんだこの事件は。
「いい街なんだけどね」
ミズはひとりごちた。
駅に着くと、いつもとは逆方面へ足を向ける。ホームへ続く階段を下りていたら、通り過ぎる人々が皆、まるで仮面を被っているように無表情のように彼女には思えた。……そういう場所なのでしょうがない。誰もが皆、知らん顔。すれ違っても知らん顔。ぶつかってもきっと知らん顔。
だったらいっそ、最初から仮面を被っていればいいのに。もっとも、自分の本性が収まる仮面などどこにあるだろうか、とミズは自嘲する。
電車に乗っても祥子は黙ったままだ。ミズは携帯のメールをいじりながら長い脚を組んで座っている。土曜日なので乗客も少ない。そのせいか、余計に周囲の雑ぱく感が鼻についた。
こんな世界、解剖してやりたい。
きっとそれを聞いたら篠畑は笑うだろう。同情の笑みなのか、嘲笑なのか、優しい微笑みなのか、あるいはそれら全てなのかは想像もつかないが。
雨の日の電車には、怪人が乗っているという都市伝説を耳にしたことがある。雨けぶる街で発生した怪人が、電車に乗って気ままに人々を翻弄しにやってくるのだという。くだらない噂だが、ミズは自分自身が都市伝説の一人であるということには、一切のアイデンティティの重きを置いていない。あくまで誰かが言い出した戯言に過ぎず、どうあがいても自分は自分以上の何者にもなり得ないからだ。
『現場』に着いたミズは、すぐに異変を察知した。雨でくすんだ表情の公園には、非常に奇妙な光景が広がっていたからだ。
ミズはふっ、と息を吐いた。
「祥子さん。あなたのダーリンが何なのか、わかった気がするわ」
カバンの中の生首の腐敗は、緩やかに続いている。