第九章 彼は気まぐれにキスをする

若宮は薄暗い廊下に設えられた古いソファに座りこんでいた。事情聴取が終わって、ようやく解放されたところである。大竹は左頬骨を骨折したらしい。自分のしたことは言え、実に後味が悪い。彼は意識を失ったまま戻らないので、そのまま警察病院へ入院となった。彼にどんな罪名が与えられるのかはわからない。
ただ、春の花びらと血と脳漿の中で倒れていた光景は、しばらく若宮の脳裏から離れそうにない。唯一の救いは、
「……大丈夫ですか」
宝飯綾香が無事であったことだ。綾香は一時、大竹とともに病院へ搬送されたが、意識が戻り目立った外傷もないということで、すぐに取り調べの対象となった。彼女も取り調べが終了し、帰宅の許可が下りたところだ。
それにしたって警察は随分と無機質な対応だと思う。だが、当の綾香がそんなことを気にしていない様子なので、益々若宮は救われた。
「一般人に心配されるようじゃ、刑事失格ね」
若宮は苦笑して言った。
「そんなこと、ないです」
「ごめんなさい」
若宮は綾香の顔を見ることができなかった。申し訳なさと動揺とで、深い負い目を感じていたからだ。
「あなたは、何者? 宝飯さん」
「え?」
「いや……何者がいてもいいんだけどね、こんな街だから」
若宮はふー、とため息をついた。見えざる影に死者との会話。伝染する狂気に生首。今さら、何に驚けというのだろう。
綾香は、やや間を置いてからこう切り出した。
「ここには、来たことがあります」
「ここって、警察に?」
「はい」
「何か事件に巻き込まれたの?」
「いえ……」
綾香はくしゃみを一回してから(雨にさらされていたのだ、どうやら彼女は風邪を引いてしまったらしい)、
「姉が昔、変死して、それで……」
「そう」
若宮は綾香の表情が曇ったことを気遣い、すっかり癖になってしまった咳払いをして、
「あなたのお店、ちゃんとこっちに補償させるからね」
「……はい。あの、それよりも」
そう話題を変えようとしたのだが、綾香の方がむしろ話のベクトルを元へ戻してくるのだ。
「気になることがあります」
「何?」
若宮は何の気なしに問うたつもりだったし、もう何にも戸惑うことは暫くないだろうと思っていたのだが、綾香の質問に若宮は心臓が止まりそうになった。
「篠畑って、篠畑礼次郎先生のことでしょうか」
「え!?」
「さっき、その名前をあなたが言っていた気がして……。聞き間違いだったらごめんなさい」
「ちょっと待って、なんで貴方があいつのことを知っているの?」
綾香は、言葉を選ぶようにゆっくりとこう告げた。
「私の姉の、主治医だったんです」
「え……」
若宮は今日何度目になるかわからない、軽いめまいを覚えた。それでも気丈に、
「『宝飯』、か。確かに珍しい名字ではあるけど」
「姉は、先生の患者だったんです」
「主治医があいつ?」
「……」
綾香が黙ってしまうと、若宮も何と言っていいのかわからない。しょうがないのでしばらく、二人で重苦しい沈黙の中に居ることにした。