第九章 彼は気まぐれにキスをする

秒針が何周した頃だろう。
ふと顔を上げた若宮の視線が、急速に固まった。廊下の先に、人影が見えたのだ。それはよく見たシルエットであった。それが一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。若宮は綾香の肩をぎゅっと抱いた。
「今度こそ、守ってあげるからね、綾香さん」
「?」
湿った日の午後に、さらに薄暗い影を落とすようなその人物を若宮はギッと睨みつけた。
「葉山君……」
「嫌だなぁ。恐い顔しないでよ」
ひたひたと現れたのは、妙に清々しい顔をした葉山であった。
「ご機嫌ナナメ、みたいだね」
「茶化さないで」
葉山のその爽快さが、逆に鼻についた。
「あなたも『世界に否定された者』なの?」
若宮はいきなり核心に触れるようなことを言ってやった。そうして揺さぶりをかけたつもりだったのだが、
「そうだよ」
あっさりと葉山は肯定した。
「だから僕らにはこの世界を否定する権利がある」
「馬鹿な事を言わないで」
「天啓だよ」
葉山の言葉には澱みが無い。一切の迷いのない証拠だろう。
「人間の苦しみは全ての罪の源。皆が解放されれば、誰もが苦しまなくていいんだよ。僕のようにね」
「どこぞの宗教だか」
若宮が吐き捨てるも、葉山は首を少しだけ傾げて、
「苦しいのはね、世界が生命を選択し拒否しているから」
「詭弁よ」
「それと――」
葉山は懐からゆっくりと、没収されているはずの拳銃を取り出した。
「この世に『正義』なんてものが存在するから」
てっきり先ほどのように銃口を向けられるのかと思いきや、
「使いたければ、使えばいい。君の自由選択だ」
そう言って葉山が拳銃を若宮に差し出してきた。
「憎いんでしょう? 僕が」
「……!」
『僕が』の声にどうしても、篠畑の声色を重ねてしまう。若宮はふらつく意識を保つために、そっと作った握りこぶしに力を込めた。
視界には、冷たく光る拳銃。腕の中では綾香が震えている。葉山は、まるで若宮を試しているようだ。
若宮は、固唾を飲んでしばし目を瞬かせた。