第九章 彼は気まぐれにキスをする

ミズは雨の日にも関わらず、サングラスを掛けて颯爽と都内某所の刑務所に現れた。事情を知っている警吏が何も言わずに敬礼をする。ミズはノーリアクションで入口を突破すると、そのまま一直線に最奥にある『拘束された自由』の空間に突っ込んだ。そう、突っ込んだという表現がふさわしい勢いで彼女は部屋に入った。
突然の登場にも、篠畑が驚くことはない。こうなることまでも予想の範囲だったというのだろうか。篠畑は読書をしていた。本から顔を開けることもなく、
「ミズ、お仕事は?」
わざとわかりきった質問をしてくるので、ミズはハイヒールの踵をカツン!と一回叩きつけてやった。
「もし風邪を引いたら、治療費請求してもいいかしら」
「使われるのは、税金ですが」
「ふん」
ミズは、余裕顔で読書を続ける篠畑を鼻で笑った。そして、
「からっぽの小さな鳥かごに、両手を取られたのは誰?」
文字を追っていた篠畑の視線が、ぴたりと止まった。
「見上げる月に照らされて、両目が赤く光ってる」
ミズは篠畑の反応を見ながら、尚も続ける。
「かわいい天使の着地地点」
「ミズ」
篠畑は抑揚のない声で制しようとする。だが、ミズは構わずに
「優しいギターの旋律と――」
「ミズ、あなたに詩を詠むのは似合いませんよ」
「あら、そうかしら。やっぱり『あの人』じゃないとダメ?」
篠畑の顔から、いつものような余裕の笑みが消える。今日は雨だ。天から何かが降り注いでくる日。篠畑は、雨の日には、天から何かが舞い降りる日には、決して詩を読まないし、詠まない。
それは、彼が『彼』になった日の、悲劇と呼ぶにはあまりにもあっけなく散ったある少女が、最期に遺した詩の存在。

世界を憎んでいるのは、他でもない篠畑である。しかし彼は既に、『憎しみ』という通り一遍の感情を超越してしまってはいるが。
彼の『人形遊び』は他者を通した世界への復讐なのである。しかし、そこに払われる代償は非常に大きい。それこそ、他人の人生、命を弄んでいるのだから彼の罪は、紙の上で裁かれないだけであって、確かにそこに存在する。
と同時に、その罪の重さが、彼の存在意義そのものであると言い換えることもできる。この矛盾こそ、篠畑の内包するものの根源であり、しかもそれをカバーし制御するに足る高い知性をも彼は持ち合わせている。罪自体を原動力にしているという意味では、彼は無敵なのである。
だがもしも、その憎しみの根源を揺るがされてしまったら? 当然、余裕の裏に秘められた『優しい』篠畑の本性が見え隠れする。当然彼の中では抗いがたい葛藤が起こる。
目の前にもがき苦しんでいる人がいたら『救いたい』。『楽にしてあげたい』。その想いは今も変わっていない。それはあの少女にしても同じことだった。
楽にしてあげること。生きる苦しみから解放されること。それは自殺教唆という歪んだ形で実現されてきた。しかし世界はそれを許さなかった。
殺人、強姦、薬物、そして……自殺。この世界にはあまりにも苦しみが多すぎる。その苦しみは、彼を徐々に追い詰めていった。
彼は、優しすぎたのだ。単純に言えばその激しい反動で、彼はその両眼に悪意と狂気を宿すに至ったのである。ある意味間違った場所へ達観してしまったというところだろうか。
「珍しいわね、あなたが言葉に詰まるなんて」
ミズはわざとらしく首をかしげてそう言った。そして、勝手にロッキングチェアに座って足を組むと、
「今日は何も飲んでいないのね」
棚に仕舞われたままのティーカップを見てそう言った。篠畑は本に視線を落としているものの、明らかに動揺している。文字を追ってはいない。
「『なぜ、あなたがその詩を知っているのか』とでも訊きたいのかしら」
「……」
「この街にはまだ、不思議なことがあるものなのね」
それは理由になっていないと言わんばかりに、不快そうに篠畑は目を細めた。別段ミズを睨みつけるわけではないが、顔の前で指を組んで肘をついて、
「ミズ、あなたらしくないですよ」
そう言ってミズの動揺を誘おうとするのだが、ミズはゆらゆら揺れながら、
「役者が言うことを聞かないだけで、不機嫌になるのは演出家失格よ」
もっとも、何が演出家だか、と付け加えて笑った。篠畑の表情は緩やかに変化していく。その隠しきれない深い闇が、それこそ『解放』されるように滲んでいく。
「舞台はまだ終わっていません。最後まで見届けるのが観客の役目ではありませんか? ミズ、あなたは観客失格です」
「観客になった覚えはないわ。あなたこそ、最後まで見届ける義務があるという意味では一緒のはずよ。こんな場所に引きこもってないで、たまには共に舞台に上がっては如何?」
ミズの挑発に、篠畑はふっと息を吐いて笑った。そして、椅子から立ち上がると、白衣を脱いで
「いいでしょう。ミズ、共に舞台へ上がりましょうか」