第八章 その面影

もしも今、ひったくりにでもあったら大変なことになる。奪った荷物に生首一丁、だなんて何処ぞのB級ホラーだ。もしも何かの間違いで、カバンの中身が露呈してしまったら、こう答えてやろう。
「私、美容師の見習いなんです」。
何とも不謹慎な回答を用意してしまう自分は、自分が思うよりも胆が小さいのかもな、とミズは、満員電車の中で内心苦笑した。他の乗客には、特に今ミズの隣でゴシップ記事を読んでいるサラリーマンには、まさか隣の女性が持っているカバンの中に生首がある(いる)とは夢にも思わないだろう。
そんなものは非日常の世界であるべきで、メトロの中で出会うべきものではない。みんながみんな、自分の日常の中で生きているのだ。そこを侵すものは忌むべきものとして暗黙の了解のうちに葬られる。認められない存在は、認識されないことで否定される。それはこの閉塞し疲弊した社会に供えられる犠牲者であると言い換えていい。
差し詰め彼女はその葬られる一匹の羊か?
いや、羊だなんて可愛いものではないかもしれない。彼女自身が、都市伝説の一つであり、己を否定する現実を切り裂くメスの持ち主なのだから。

今日は金曜日の夜である。一週間の疲れを一杯の酒で洗い流す者達が集う歓楽街の隅にある、やや寂れたバーにミズは向かった。
「おや、久しぶりだね」
店に入るや否や、そう声をかけられた。店のマスターである。名前は知らないが、いつもニコニコ愛想がいい中年だ。
「今月は初めて。ここのところ忙しくて」
「そう」
このマスターは余計なことは一切言わないし訊かない。その加減が、ミズにはちょうど良かった。
「ジントニック」
「いつもの、だね」
ミズは隣の椅子に無造作に鞄を置いた。中の首は沈黙したままだ。
よく一口酒を運ぶと、それだけで一週間の疲れが吹っ飛ぶと爽快に語る者がいるが、ミズの場合はだいぶ違った。五臓六腑に沁み渡っていくアルコールは、ミズの後悔を深めるだけのような気もした。
何の後悔か。それを彼女に問うのは愚問だろう。それこそ、解剖されかねない質問だ。敢えて答えを語るとしたら、それはどうしようもないものへの、どうしようもない後悔、とでも言おうか。
時間は巻き戻らない。過去は改竄のしようがない。一度消えた命のともし火が灯ることは、二度とない。しかし彼女はその摂理を侵した領域にいる。
死者との会話。もう慣れたはずだと思ったが、こういう静かな場所で目を閉じると、今でも思い出すのは、あの声の持ち主の顔。
最期には焼けただれて見る影もなかったが、唇だけは動いて、彼女の名を呼び続けた。彼女は、生涯その声を忘れることはないだろう。
思い出せないのは、ただ一つ。彼が呼ぶ自分の名だ。
ミズは息を吐いた。そして、切り刻んできた名も知らぬ者などいくらでもいたでしょうに、と自嘲する。何人を解剖しようと、そのメスは常に彷徨っている。自分は、何を切り裂いているのか。目の前に横たわる遺体であることには違いないが、自分はそれ以上の何かを手にかけている気がする。今更と言えば今更だが、後悔とは今更になってするから後悔なのだ。
ミズは、このまま考え事をしていてもジントニックが不味くなるだけだと思い、ちょっとした遊びを思いついた。カバンのチャックを少しだけ開けてみたのだ。首――荒木祥子の、茶色に染めた髪が覗く。ミズは、自分の席の周囲が空いているのをいいことに、なんとその場で祥子に話しかけたのだ。
「……居心地は、いかが?」
我ながら嫌味な質問だと思う。祥子はすぐには返答しない。
「もうお酒も飲めないのよね。可哀そうに」
店のマスターは何も気づいていないフリをしてくれる。まったくもって、ありがたい。
「もっとも、アルコールなんて一時人に解放の幻想を見せるだけ。生物学的には害悪物質、なのよね」
そう言いながらミズはアッサリと一杯目を飲みほした。
アルコール、煙草、安定剤の類。どれも程よく摂取すれば、その人を一時的にでも楽にせしめるものであるが、許容量を超えればそれはすぐに牙をむく。何事も程々に、ということなのだろう。中庸だなんて素晴らしく便利な言葉を最初に言ったのは中国の孔子であるが、そんなことはミズにとってどうでもいい。とにかく、少なくとも自分はその中庸とやらからはとっくに逸脱しているのだから。
「……マスター、もう一杯ちょうだい」
「はい。今日も一人なんですねぇ」
マスターの何気ない一言に、ミズは何の気無しといった表情で、
「いいえ、二人よ」
と答えた。文字どおり、『頭数』は二人であるので嘘ではない。
「そうですか」
マスターもそれ以上詮索しない。本当にここは居心地がいい。潰れてしまっては困るが、大衆居酒屋のような喧騒からは逃れられるのであまり他の客には来てほしくない、とミズは身勝手なことを思ってしまう。
客は、ミズの他にサラリーマン風の男性とOLのカップルだけだ。それも少し離れた場所なので、ミズは『独り言』を言いやすい。
「祥子さん、ダンマリは電車の中ではありがたいんだけど」
二杯目に口をつけながら、ミズはまた首に語りかけた。
「保冷剤と防腐剤、鞄開けてると漏れるから、さっさとしゃべらないと、あなた腐るわよ」
それを聞いてなのか、祥子は鞄の中から呻くような声を上げた。
「何よ、あんた何よ……こんなことしていいと思ってるの?」
「別に」
「死体損壊罪って知ってる? あんた、捕まるわよ」
「損壊も何も、それが私の仕事だもの」
「ふん……こんな保冷剤と一緒にされた人間の気持ちなんて、きっと一生あんたにはわからないでしょうよ」
「知りたくもないわ」
祥子は悔しそうに顔を歪める。
「あんた、ロクな死に方しないわよ」
祥子がそう吐き捨てるも、ミズは涼しい顔だ。
「少なくともあなたよりはマシな死に方がしたいわね」
「ぎぃぃ!」
「静かにして」
どうやら生前から、祥子はややヒステリックな性格だったらしい。いや、こんな状況に置かれて冷静にいられる方が、余程どうかしているのかもしれないが。
ミズは足を組み換えて、ちらっと店内を見回した。相変わらずカップルは愛を囁き合っているし、他に客らしい客がいないので祥子の声が少し店内に響いてしまったのだ。だが、それでもマスターは気にしていない素振りである。
「せっかくの金曜日の夜だもの。仕事のことは忘れたい……けど、そうもいかないようね」
ミズは腕時計を見た。終電まではまだ時間がある。家に帰ってもシャワーを浴びて寝るだけだ。上手く時間を埋める術を、彼女は持ち合わせていない。
「ちょっと酔いを醒ましてから帰るわ。もう少し話に付き合ってよ」
「ハッ、死人に話し相手を? あなた、友達少ないでしょ」
「お友達ね……」
ミズは少しだけ思案するような顔をして、
「いないわ」
そう断言した。
「必要ないし」
「ハハッ」
「面白かった?」
「可哀そうなのは、あなたの方よ」
それを聞いて、ミズはニヤッと笑った。
「そうかもね」