第七章 正しい紅茶の淹れ方

若宮は仕事場を抜け出して(こういうことをすればますます風当たりが強くなることは承知の上で)、葉山の住むマンションに向かった。マンションといっても立派なもので、4階建てのベランダ有、しかもまだ新しい建物だった。
玄関にはセキュリティまで付いている。若宮は葉山の部屋番号である「303」とキーボードに入力し、呼び出しボタンを押そうとした――その指が、ふと止まった。若干息が上がっている気がしたが、若宮は至って平静を装おうとした。しかし、勢いだけでここまで来てしまったが、本当にいいんだろうか?

……今さら! 迷う必要が、何処にあるというのだろう。
そう思っても、呼び出しボタンをプッシュできない自分の指先がもどかしい。

「宇宙は限りなく広いのに、人間の認識はかくも狭い。所詮は狭い視界で捕捉した世界の一部を、世界の全てだと思い込んでいるに過ぎないのだろう。宇宙が広いということを知っていても、その広さを認識できるだけの能力を、我々人間には残念ながら備えていないのだ」
抑揚のない声で、葉山大志はそう独りごちた。手にしていた本を閉じて、ため息をつく。どこで手に入れたかも忘れた、古い本。
暇つぶしにもならないな。
「ならば――この世界は、一体誰のものだ?」
閉じられたカーテンのせいで昼間なお薄暗いマンションのリビングで、葉山は時間を持て余していた。釈放されてそのまま謹慎処分を食らってから、どこにも出かける気力が無いのだ。目的も無ければお金も無い。別段困窮しているわけではないが、それにしたって誰からも必要とされていない今の自分の身分は居心地が悪すぎる。

何が起きたのか、自分にもよくわからなかった。嵐のように日々が過ぎて、途中からの記憶があいまいなのはひどく気味悪い。自分の言動一つに責任が持てないような体たらくでは、葉山は自分を許すことができなかった。
『あの日』、何があった?
思い出せない。悔しいが、悪い夢を見ていたようだ。起きぬけは覚えていたのに、どんどんと遠ざかってしまったような感覚。
「………」
しかし唯一、手に残る感触だけが葉山を自責の念に追いやる。重厚で冷たい銃口から放たれた、軽薄な数弾。そしてそれによって失われた、一つの命。
自分は誰かを手にかけた? しかし、それが誰なのかが、どうしても思い出せない。誰も教えてくれない。ただ、流されるままに自宅謹慎処分を受けて、しかしこれといって罰金などは受けずにこうして家にいる。
葉山は置き所のない身をソファに沈める。時計の秒針が進む音だけが虚しく響いている。時刻にして午後3時半。4月の夕陽がちょうど傾いてくる時刻だ。西日がカーテンの隙間から入ってくる。葉山はその眩しさに目を細めた。そのまま眠ってしまおうか。
「……」
そうして半ば意識を手放しかけた時。部屋に、乾いた着信メロディが鳴り響いた。曲は、買った時のまま放置してある。流れる電子音はふざけた『幻想即興曲』である。ショパンが聞いたら顔を赤くして怒るだろうと簡単に連想させるようなチープさだ。
着信画面に見慣れない番号が表示される。しかし全く見たことが無いわけではなかった。本来ならば記憶力のいい葉山であったから、脳のどこかで“見た事のある”番号だと認識されたのだろう。彼は惰性で手を伸ばし、テーブルの上の携帯電話を手に取った。緩慢な仕草で通話ボタンをプッシュする。
「……もしもし」
久しぶりに声を出した気がする。葉山は独り言すら言わずに、この日々を過ごしていたのだ。
電話の相手は少し茶化した口調で、こう返答した。
「お久しぶりですね、ミスター・葉山?」
「はい?」
「もう忘れちゃったかなぁ。それとも、『僕らはまだ出会っていない』?」
「……どちら様ですか」
「やだな、とぼけないで下さいよ。寂しいじゃない」
「電話、切りますよ」
「冷たいなぁ。じゃあ、一言だけいいですか?」
「切ります」
「もうすぐ、主演女優さんがいらっしゃいます。『眠っている場合じゃないですよ』。では」
「……?」
こちらから切ると言っておきながら、電話は相手から切れた。葉山は突然の出来事によくついていけず、相手の言っている意味もわからず、首を傾げた。
しかし、相手の言っていた意味は、葉山自身が身を以てすぐさま知るところとなる。長いため息をついた葉山が今度こそ眠ってしまおうと目を閉じてから、部屋に数秒の沈黙が下りた後に、今度はインターフォンが鳴らされた。
(来客? 自分に?)
何だかさっきからタイミングの悪い、と葉山は内心ぼやいてから、のそのそと身を起してインターフォンに出た。
「はい」
「あの……」
姿を見なくても、声だけでオドオドした様子が伝わってくるような女性の声だ。これはさっきの番号と違ってすぐにはっきりとわかった。
「若宮さん? どうしたの」
「会いに来たの」
「僕に?」
「とりあえずこのままだと私、完全に不審者だから、オートロック、開けてくれない?」
葉山は言われるままにオープンのボタンを押した。それから、若宮が303号室へ着くまでの間、葉山はたった今あった電話の内容を反芻していた。
『主演女優』
『眠っている場合じゃない』
一体、なんなんだ?
葉山が熟考する間もないまま、今度は部屋のチャイムが鳴らされた。葉山はハッとして、慌ててドアを開ける。すると、ちょっと不機嫌そうな顔をした若宮が立っていた。
「い、いらっしゃい」
「ども」
よくよく考えなくたって、独身男性の家に突然乗り込んでくる女性というのも大胆である。というかやや厚かましいかもしれない。それでも、若宮が迷った挙句に葉山の家を訪問したのは、彼女を動かすガソリンがメラメラと燃えているからである。それに火を付けたのは、他でもない篠畑だ。進むべき道を迷っていた若宮を、挑発という形で見事にけしかけた。そう、それは篠畑礼次郎という人物が描く舞台の上で。
若宮は、自分ではあまり認めたがらないが、非常にひたむき、言い方を変えれば他を顧みない猪突猛進なところがある。そのベクトルがどこかずれていることもまた、本人は認めない。
「甘いもの、大丈夫だったよね」
そう言って若宮は、来る道で適当に買ったコージーコーナーのシュークリームが入った箱をテーブルの上に置いた。
「ど、どうもありがと……」
「思ったよりきれいな部屋だね」
これはなかなか失礼な発言である。だが若宮に悪意はない。ただ、妙な緊張を解くのにそういう軽口を叩かずにはいられないのだ。
「でもカーテンくらい開けなよ」
「あ、ご、ごめん」
しかし、若宮以上に緊張しているのは葉山である。いきなりやってこられて、もちろん変な下心は無いが、どうしたらいいのかわからない。それに、いつもスーツ姿ばかりだったお互いなのに、若宮はともかく葉山はポロシャツに髭も丁寧に剃っていない姿だ。なんとなく気まずい。
「えっと」
葉山はポリポリと頬を掻きながら、
「どうしたの?」
その質問に、若宮は葉山をムッと睨んだ。
あれ、何かまずいこと訊いちゃったかな、と葉山が焦った、その間隙を縫うように若宮は視線をシュークリームに落して、それを一個手に取った。
「食べなよ」
「あ、うん」
二人してシュークリームをもそもそと食べる音だけがする。なんとも言えない雰囲気に、葉山はシュークリームがしょっぱいような感覚すら覚えた。妙な汗が出る。
「あのさ」
「はい」
若宮からのプレッシャーに、思わず敬語になってしまう葉山。
「『どうしたの』って質問は、こっちのセリフなんだけど」
「へ?」
「だから、質問があるのは私の方。シュークリーム買って来たんだから訊く権利があるでしょ」
意味がわからない。いきなり押しかけてきて、しかも誰も買ってきてくれと頼んでいないシュークリームを理由に権利を主張されても困ると思うのだが、しかし話が進まなければもっと困るので、葉山は若宮の主張を聞き入れることにした。
「その前にさ」
若宮は自分のペースで話を進める。
「飲みものないと喉が詰まるんだけど、何かない?」
「あ、ごめん、お茶も出さずに」
葉山は慌てて台所へ行って、麦茶を2つ持ってきた。
「こんなものしかないけど」
「ふーん」
若宮はしばし、シュークリームを頬張りながら思案した。目の前に置かれたグラスの中身を見て、
「……紅茶じゃないんだ」
そう呟いた。
「てっきり、紅茶でも優雅に淹れるのかと思ったよ」
「え、なんで?」
「なんで、って……」
若宮は麦茶を一口飲んで、
「あなたはあの人のこと、真似てるのかと思ったから」
「あの人?」
「篠畑礼次郎」
その名前を聞いても、葉山は訝しげな顔をするばかりである。
「それ、誰?」
若宮は「ふー」とわざとらしく息を吐き、腕を組んだ。
「シュークリーム代、請求していいかな」
「なんで!?」
「とぼけないでよ。こちとらわざわざ出向いたってのに、そんな答えじゃ納得できるわけないでしょ」
「え、え?」
「いい、もう一度言うわ。篠畑礼次郎、よ。『見えざる影』よ。『耽美なる死を導くもの』。知らないとは言わせない」
若宮の捲し立てるような言い方にすっかり気圧された葉山は、シュークリームを飲み込んでから、
「聞いたことは、あるけど」
なんとか息を整えて、
「僕と直接の関係は、ないよ」
「あいつ!」
「ごめんなさい!」
若宮の調子にすっかり飲まれてしまっている葉山は、思わず謝ってしまった。
「なんで謝るのよ。あいつよ、あいつ! 何かしでかしたんだわ。何かしたに決まってる。あなたが嘘をついているとも思えない」
「えっと、その篠畑さんが、僕に何を?」
「それがわかれば苦労しないわよ」
不機嫌な若宮に一抹の疲労感を覚えた葉山は、何とか彼女の気分を治めようと、
「麦茶、もう一杯いる?」
と声をかけたのだが、
「結構」
あっさりと断られてしまった。
「これを、置いて行くから」
そう言って、若宮はバッグから棒状の機械を取り出した。
「それ、何?」
「違法行為」
「はっ?」
「あなたの取り調べ時に録音したICレコーダー。もちろんコピー。聞き終わったら処分して」
「僕に、何をしろっていうの」
「……わからない」
「?」
「でも、あなたには思い出す義務がある。私たちはまだ、あいつの手のひらで転がされている、そんな気がする。このままじゃいけない。また繰り返してしまうかもしれない。この連鎖を止めるには、あなたがあなたと向き合うこと。それが必要だと思う」
「ごめん、言っている意味がよく、わからないんだけど……」
「こっちこそごめん、自分が何をしたいのかよくわからないわ」
若宮は視線を床に落とした。
「でも、あなたにはしなければならないことがある。それがきっと、あなたがあなた自身から逃れられる唯一の道のような気がする」
しばし黙してから、葉山はICレコーダーを手に取り、
「……若宮さん、君は知っているんだね。僕が、一体何をしたのか」
若宮は、ゆっくり頷いた。
「そっか……」
「ごめん」
「なんで若宮さんが謝るの?」
「これはきっと、私のワガママだから」
「………」
葉山は何とリアクションしていいのかわからず、言葉を探して沈黙してしまう。
「あのさ、葉山君」
突如、声のトーンを高くして、若宮はこんなことを言った。
「この麦茶、まずいよ」
「は?」
「正しく淹れれば、もっとマシな味になるだろうね」
「いや、正しくもなにも、ティーパックなんだけど……」
「安物?」
「百均」
「もっといいもの買いなよ」
なぜそんなことをダメ出しされなければいけないのか、少々不服な、というか不可解な葉山であったが、若宮のプレッシャーに首を縦に振るばかりである。
「次はもっと、美味しいお茶でも飲みに行こうね」
目をパチクリさせる葉山。別に何も期待してはいないが、まるでこれじゃデートの誘い文句じゃないか。
「代官山にある『57』のダージリンは、かなりお勧めなんだよ」
「あ、そうなんだ」
取りあえず相槌を打っていると言った感じの葉山。構わず若宮は続ける。
「もっとも、東京で一番おいしい紅茶を飲もうと思ったら『命がけ』だろうけどね」
苦笑する若宮に戸惑う葉山。
「自宅謹慎は、いつまで?」
「えっと、……今月末まで」
「そう。じゃあゴールデンウィークに間に合うな」
「う、うん」
なんだろう、これは約束したってことになるのか?
「それまでに、『取り戻してね』。」
「何を?」
「あなた自身を」
若宮はそう言うと、手早く荷物をまとめて帰り支度を始める。
「いきなりお邪魔してごめん。顔が見れて良かった。思ったより、元気そうで」
「ん……そうかな」
「じゃあね」
若宮は、玄関先で敬礼のポーズを取った。
「葉山警部補、次は外でお会いしましょう」
釣られてポロシャツ姿の葉山もポージングする。それを見た若宮はニコッと笑って、きびきびと帰って行った。
遠ざかる足音。葉山はこの数分間で、今まで張り詰めていた緊張が余計に増幅されたような、軽い疲労感を覚えた。自分の麦茶を飲む。
「……そんなに、マズイかな?」
そんな独り言は、再び一人になった部屋に虚しく消え入った。
テーブルに置かれた書類とICレコーダー。これはたぶん、今、自分が知りたがっている答え、あるいはそこへ辿り着くヒントだろう。
ICレコーダーの再生ボタンに添えた指先が震える。
自分は何を怖がっているのだろう。
「………」
迷っていてもしょうがない。そっと力を入れて、彼は再生ボタンを押した。

葉山のマンションから一歩出た若宮は、大きく息を吸った。
彼女のこの選択を、誰が咎められようか。彼女は自分の信じるところに則って行動したまでである。そして彼女自身もそう思っている。
それなのに、暖めようと口元で組んだ手が、かすかに震えている。鼓動が跳ね上がっている。それは、決してときめきやそういう類の感情ではない。押し寄せてくるのは、ある種のギャンブルに出てしまった自分へのプレッシャーだ。
「……信じてるから」
言い訳のように、若宮は呟いた。