第七章 正しい紅茶の淹れ方

思ったとおりだ。戻ったオフィスで若宮を待ち受けていたのは、周囲の冷たい視線だった。しかし彼女は気丈にそれをスルーすると、自分の席に座った。腕組みして、しばらく考え事をしていた。何を、と訊かれても答えられそうにないが。……あまりにも漠然としているから。
「若宮」
声をかけられて、彼女はちらっと視線を向けた。文句や嫌味を言われるのなら、とっくに覚悟はできている。だが、隣のデスクから声をかけてきた大竹は、意外な言葉を口にした。
「眉間のしわ、ひどいよ」
「え」
「どうした」
「別に……」
「別に、ってこたぁないだろ。ホラ」
そう言って、大竹はコーヒーを差し出した。
「あ、ども」
「どうだった」
「え?」
大竹はふー、と息を吐いてしばし黙してから、
「葉山に、会って来たんだろ」
「なんでそれを……」
「あの人からメールがきた」
「まさか」
若宮は目を瞬かせた。あの人が大竹とコンタクトを取ったということが信じられない。確かに、葉山の取り調べを中心に行ったのは大竹だ。しかし、篠畑が自殺教唆以外の理由で他者に興味を持つことは極めて珍しい。若宮は、父親のコネとはいえ自分があの人物と繋がりを持っていることに、どこか特別意識を持っていた。それ自体を彼女が認めることはないが、その特権を侵害された気がして、若宮はやや気分を害した。
「で? どうだった」
「いや……別に何も」
「そんなことないだろ。あいつは元気だったのか?」
「まぁ、普通」
「ふーん……」
大竹は若宮に、デスクの上を見るよう促した。メモが置いてある。あまり綺麗とはいえない字で、こんな言葉が躍っていた。
『そして、舞台は再び』
「……?」
「あの人からの伝言だ。俺にも意味はサッパリだが」
「舞台……」
「葉山、あいつ本当に元気だったのか? 俺が最後に会ったとき、あいつはぶつぶつとずっと独り言を言っていたんだ。とても正常だとは思えなかった」
「正常、なんて誰が決めるの」
若宮は篠畑の口癖を真似てみせる。
「大丈夫よ。葉山君は、……大丈夫よ」
大竹はため息をつくと、自分のデスクから書類を取り出し、若宮の眼前に置いた。
「ほらよ」
「何、これ」
「新しいヤマの極秘資料」
「え!」
「もちろん秘密裏に頼むよ。ばれたら、俺の首が飛ぶ」
「何考えてんのよ」
若宮は、自分のしたことを棚に上げて大竹を非難した。だが大竹は真剣な表情で、
「今度のヤマなんだけどな」
一呼吸置いてから、
「どうも、おかしいんだよ」
「おかしいって、おかしいから事件なんでしょう」
「そうじゃなくて、被害者が一人もいないんだ」
「は?」
若宮はコピーされた書類の一枚を手に取った。そこには、『被害者不明』と赤ペンで書かれている。
「どういう意味?」
「いや、だからそのままの意味だよ。被害者がいない。それでも、これが事件として上がってきたのには、きっと意味があるはずなんだ」
「……バッカみたい」
若宮は書類にあっけなく興味を失いかけたが、大竹の次の言葉には反応せざるを得なかった。
「なぁ、モグラって何だ?」
若宮の目が点になる。
「葉山……あいつは取り調べで意味不明はなことばかり取り調べて言っていたが、中でも気になったのは『モグラ』って単語だ。モグラがどうの、って」
「それは……」
言葉に詰まる若宮。
「……あの変態ドクターに訊いてよ」
「うーん、そうか。わかった」
大竹はそれだけ言うと、納得していない表情で席を離れた。恐らく、このあと篠畑に会いに行くのだろう。そう思うとなぜか悔しい気もした。だが、それどころではない。
「……」
若宮の中に、新たな疑惑が生まれる。
モグラ。被害者不在。
『認識されなければ、否定されていいのか?』