第十五話 慈愛の罠(一)人殺し

木内が美奈子を待合ロビーへ招き入れ、あおいがウォーターサーバーの水を汲んだ紙コップを手渡すと、美奈子はそれを一気飲みした。開口一番、

「話をさせてください」

という美奈子の鬼気迫る雰囲気に一瞬だけ圧倒されつつも、木内は首を少しだけ傾げて、

「もうすぐ外来開始だから、午前の診察が終わるまで待ってもらわないと……」

といつものようにのらりくらりと返答しようとしたのだが、美奈子は食い気味にこう迫った。

「先生じゃなくて、あの人とです」

「あの人?」

「あの人です。名前も教えてくれない無礼者だったり、ポケモンが好きなやんちゃな子だったり、優しいけど何を考えているのかよくわかならなかったりする、あの人です」

一息に美奈子が放った言葉に今度こそ驚いた木内は、あおいに「急患いなかったら外来開始10分押しで!」と伝えて、美奈子を診察室隣のカウンセリングルームへと誘導した。ここならば音声が漏れることがない。

木内が待合ロビーからポロシャツの胸ポケットに突っ込んだのど飴を差し出すも、美奈子は首を横に振った。

「コレおススメだよ。のど飴の中でもバーブエキスとカラメルのバランスが一番いいと思ってて。僕の仕事は声も大切だから、最近手放せなくってさ」

「そんなことはどうでもいいです」

「あと、ソフトボールは声掛けがチームワークの肝だからね。『ナイショート!』とか叫ぶとさ、この年齢になるとかなりのどに堪えるんだ」

「そんなことはどうでもいいです」

「あとさ、神保町の東京堂書店でこの前……」

「先生!」

「はいっ」

美奈子のあまりの気迫に、反射的に返事する木内。これでいてかつては都心の大学病院で医局長まで務めていた人物なのだから、人というのは実に多面的な生き物である。言わずもがな、人格が分裂などしていなくても、だ。

「彼の名前を教えてください」

「え、なんで」

「呼ぶときに困るから」

「それは本人にたずねるべきでは」

「だったら本人に会わせてください」

あっけなく美奈子の勝利である。木内はがっくりと肩を落としたが、それでも首を縦には振らなかった。

「どうしてですか」

食い下がる美奈子に、木内はどう返答すべきか迷った。彼女のまっすぐな瞳が、こちらの良心を責めている気さえした。だから、せめてかけらでも誠実であろうと、事実を伝えることにした。

「鎮静剤を……消耗が激しくて、主人格を守るために投与したんだ。今は深い眠りの中だよ。しばらくは起きないはずなんだ」

「そんな……」

「そういうことだから、ごめんね」

「じゃあ、彼が起きるまで待ちます」

「ええっ」

この子は本気だ。そして一度言い出したらそれを貫く強さを持っていることも木内は知っている。短く息を吐くと、木内は美奈子にこう告げた。

「じゃあ、宿直室で待っていてくれるかい。テレビもついているから一応、暇つぶしには使えると思うんだ」

「ありがとうございます」

宿直室の場所なら以前利用したことがあるので美奈子もよく知っている。木内は腕時計を見て「そろそろ行かなきゃ」と慌ただしく出て行こうとした。その去り際に美奈子が「ありがとうございます!」とあいさつすると、木内はいつものようにへらっと笑ってみせた。

木内が去るやいなや、弾みをつけて椅子から立ち上がった美奈子は、心の赴くままに「白い部屋」を目指した。

外来診察が始まると、外来棟と入院棟の通路は人通りが少なくなることを知っていた美奈子は、物置を模したすき間に敷かれた白いカーテンをめくって、その先に隠された通路に突き進む。

(悪いことじゃない。誰も悪くない。だから、私も悪くないんだ。)

細い廊下の奥の「白い部屋」の扉は少しだけ開いていて、薄暗い中に一筋の光が差していた。美奈子は足早に向かうと、微塵のためらいもなく扉を開けた。

すると、心地よい風が美奈子の頬を撫でた。眠りについているはずの彼は、窓際のロッキングチェアに腰かけて、体をだるそうに揺らしていた。

扉が開いて美奈子が姿を現すと、

「……あ、おはようございます」

と、蚊の鳴くような小さな声であいさつをした。

「体調、いかがですか」

美奈子の問いかけに、裕明は力なく微笑んでみせた。

「ちょっと、つらいです。クラクラします。久々に強いのを飲んじゃったみたいで」

「じゃあ、楽な姿勢でいてくださいね」

「でも、あれでももう数時間しか眠れなくなっちゃったみたいです。困ったな」

美奈子は部屋の中に歩を進めると、彼が先刻まで使っていたベッドに座り、右手を高く上げた。

「自己紹介します」

「はい?」

「私はあなたのことを何も知らない。あなたも、私の名前しか知らないでしょう。だから」

「いや、僕はあなたの名前も知らない……」

美奈子が目をぱちくりする。そうだ、名乗ったあの時は別人格だったのだ。だったら、なおさら、自己紹介が必要と感じた美奈子はしっかりと彼に伝えるために、ゆったりとした口調で話しはじめた。

「高畑美奈子、18歳。誕生日は8月29日。しし座寄りのおとめ座。好きな食べ物は甘いもの全般、です」

「はぁ……」

美奈子は上げていた右手を今度は裕明に向けた。

「じゃ、どうぞ。自己紹介タイム」

「え、なにを話せば」

「私に知ってほしいことです」

おそらくは、美奈子に自覚はない。恋する乙女のアグレッシブさは、時としてあらゆる空気や慣行に類するものたちを突き破る、ということを。

彼は腕組みしたまま、しばらくロッキングチェアでゆらゆらと揺れていた。

「高畑さんに、知ってもらいたいこと……?」

「美奈子でいいです」

「美奈子さんに、知ってもらいたいこと……?」

今日も奥多摩は晴天予報だ。突然の雨はあるかもしれないが、朝のうちは穏やかな青とぽっかりした雲の白が空を支配している。

風もまた、相変わらず優しい。ただそこに在ることが、それだけで十分に尊いということを人々に伝えているようだ。

「じゃあ、僕の過去を少し、知ってもらえますか」

裕明の口から飛び出した言葉に、美奈子は一回だけ深呼吸した。

「もちろん。あなたのことなら、私はなんでも知りたい。でもその前に、名前を教えて」

どうしてそんなに前のめりになるのかが不思議だったが、悪い気はしなかった。自分に関心を持ってくれること自体が、どこか心地よかったのだ。

「江口裕明といいます。えっと、21歳です。誕生日は、12月21日です……なに座かは、知りません」

「いて座ですね!」

「そうなんですか。好きな食べ物は……というか摂取可能なのは、赤くないものです。白ければベターです」

「なるほど」

「それで、僕が美奈子さんに知ってほしいことは——」

「はい」

「僕が、人殺しだということです」

***

学ランをぎこちなく着た裕明は、職員室で体を震わせていた。

「お願いです先生、どうか修学旅行を取りやめてください」

裕明は本気だった。だが、その本気を担任の教師は本気で受け取ることはなかった。教師は書類の山にだけ目をやり、彼と目を合わせようとしない。赤ペンを走らせながら、面倒そうに返答した。

「江口。何度も言うが、お前の一存なんかで中止になどできるわけないだろう。そんなに修学旅行が嫌なら、行かなきゃいいじゃないか」

「人が、死にます」

「縁起でもないことを言うもんじゃない」

「お願いです、お願いします!」

頭まで下げる裕明を、教師は非常に疎ましそうにちらりと見やった。

「江口。お前、そんなんだから、いじめられるんじゃないのか?」

――誰も、信じてくれなかった。

周囲から「不可思議」と受け取られる言動を繰り返す裕明を、クラスメイトはこぞってからかった。いや、それはからかいや嫌がらせの域を大きくこえて、「いじめ」と呼んだほうが相応しかったかもしれない。

「よう、不思議クン。明日の天気を教えてくれよ。気象庁より当たるんだろ? 明日俺、大事な試合なんだ」

数人に階段前の壁際へ追い込まれた裕明は、しかし口を真一文字に結んで応じようとしない。

「明日は母さんも観に来るんだ」

「……」

「あ。お前、親いないんだっけ? ごめんごめん!」

周りの取り巻きからどっと笑い声が溢れる。

いじめの急先鋒は、サッカー部に所属して女子たちから人気があった男子生徒だった。いわゆる「クラスの人気者」で、教師や保護者ら大人の前では非常に外面がよく、陰では立場の弱いものをいびりまくるという、「非常に要領のいい」だけの人物だった。残念ながら腐るほどいるだろう、このような類の「クラスのボス猿」は。

裕明は無視を貫こうと、そのいじめっ子の言葉に反応せずに黙り込んでいた。それが気に食わなかったらしく、その男子生徒はこんなことを言いだした。

「じゃあさァ、上履き脱いで飛ばせよ! ひっくり返ったら雨、確定な」

取り巻きが歓声を上げる。その中の図体の大きい一人が、嫌がる裕明から無理やり上履きを奪い、階段の踊り場めがけて投げ捨てた。上履きは音もたてずに仰向けに転がった。

「よっしゃ! 明日は晴れだな。ありがとうね~」

またも下品な笑い声が周囲に反響する。屋上に続く階段のため、気づかれにくい場所を選んでいるあたりにもその卑劣さが象徴されている。

「明日はクラブチームのスカウトも観に来るからさ。晴れてくれなきゃ困るんだよな」

ゲラゲラ笑いながら、連中が去っていく。落ちていた裕明の上履きは、二回蹴飛ばされた。裕明は悔しさや怒りをぐっと堪え、踊り場まで上履きを取りに行くと、誰にも気づかれないように呟いた。

「明日は……大雨だよ」

その翌日、天気予報が大きく外れて、土砂降りになった。そんな中で強行されたサッカーの試合で、裕明をいじめていたその男子生徒はフォワードとして出場していたが、重たい泥に足を取られ、足首を複雑骨折した。結果、彼の選手生命は、あっさりと絶たれた。それまで黄色い声を送っていた女子たちも離れていき、「だっせ」といったあんばいでその男子生徒が嘲笑の対象になるのに、時間はかからなかった。

男子生徒の大怪我を知った日の裕明の日記には、キャンパスノートの1ページが真っ黒になるくらい、数えきれないほど「気持ちいい」「ざまあみろ」「そのまま死ね」などとボールペンで走り書きされていた。しかし、「裕明」自身にその記憶はなかった。

不可思議な出来事はそのサッカー部の男子生徒に留まらない。友達の一人もおらず休み時間に読書ばかりしていた裕明を「キモイ、うざい」と嗤っていたグループの中心にいた女子生徒の母親が、自宅で入浴中に急な突風で飛んできたアスファルト片で割れたガラスが首元の大動脈に刺さり、出血多量で死亡した。第一発見者となったその女子生徒は重度の過換気症候群となり、風が吹いた日には枯葉一枚が舞うのを見ただけで涙目になって呼吸に苦しむ体となってしまった。

学年で名を馳せていた秀才君は、自分と実力が伯仲しているにも関わらず裕明が自らをを卑下していることを非常に妬んでいた。実際には卑下ではなく、裕明はただ、テストの点数など数多の指標の一つに過ぎないことをわきまえていただけなのだが、その姿勢が「クールぶりやがって」と秀才君の怒りを買っていたのだ。

当時まだ出始めだったインターネット掲示板に秀才君はスレッドを立て、裕明のことを数人の生徒にボロクソに書き込ませた。それをわざとらしく、親切の体で「江口、お前ひどいこと書かれているぞ」と裕明に伝えたのだが、「教えてくれてありがとう」と言ったきり、裕明が時間を割いてそのスレッドを見ることはなかった。

数日後、秀才君の自宅パソコンが海外のハッカーにハッキングされて、秀才君の本名、住所、親の勤め先に留まらずアダルトサイトなどの閲覧履歴まで、ありとあらゆる個人情報を世界中にばら撒かれた。秀才君はノイローゼになり、勉強が全く手に付かなくなった。そのうえ極度の視線恐怖症になり、現在も引きこもっているという。

……枚挙にいとまがないが、これらはすべて嘘のような本当の出来事だ。「自分に仇なした人間が、ことごとく不幸に見舞われる」。そのことに気づいてしまってからは、裕明は世間から己の存在を憚るようにそっと生きてきた。

(誰がどうなろうが、僕には関係ない。だから、僕に構わないでくれ。)

自分さえいなければ。自分さえいなければ誰も苦しまない。わかっているのに、どうして自分から世界を手放す勇気がないのだろうと、裕明はひどく自分を責めた。

それでも、施設長からは学校に行くように言われていたし、自由になるお金もなかたっために公園などで時間を潰すこともできなかった。何よりも学校を休めば、それが施設に筒抜けだったので「サボり」と見做されて「指導」の対象となるから、裕明は歯を食いしばってでも登校を続けるほかなかった。

そんなある時、非常に恐ろしい夢を彼は見てしまった。観光客ばかりのひなびた街を、楽しそうに歩くクラスメイトたちの修学旅行の夢だった。

楽しそうに歩く行列。それを、黒い服を着た不審な男がふらふらとつけていた。男は隠し持っていたナイフを取り出し、列の中に飛び込んでいく。はしゃぎ声はすぐに悲鳴に変わった。

直接の恨みでもあるかのように執拗に胸元を刺された男子。
逃げようとして転倒し、髪を引っ張られてそのまま喉元にナイフを突き立てられた女子。
男を止めに入ろうとして、そのまま犠牲になった教師。

その場は血の海。尋常ではなくおぞましい光景が、裕明の脳裏に焼き付いた。

――これは、まずい。

「お願いです先生、修学旅行を取りやめてください!」

「江口。行きたくないなら別に、行かなくてもいいんだぞ」

「違います……」

「なんだ、お前。あんな目に遭っているのに、みんなと一緒に修学旅行に行きたいのか?」

腐った学校には、腐った教師しかいないということなのだろうか。たとえそうだとしても、裕明はこぶしをぐっと握りしめて必死に訴え続けた。

「お願いです。人が死にます」

「ふざけたことを言うな。ボイコットなら勝手にしろ」

「違うんです」

「いい加減にしろ!」

「……」

裕明の懇願も虚しく、その翌週に修学旅行は実施された。九州北部を周遊する3泊4日で、長崎で原爆資料館とハウステンボスに行き、佐賀で吉野ケ里遺跡と伊万里焼の工房を見学し、最終日にはキャナルシティ博多の水族館と受験祈願のために太宰府天満宮に行く。そのような行程だった。

太宰府天満宮に向かう学生たちの列に、通り魔の男がナイフごと突っ込んだ。その男は取り調べで、「楽しそうにはしゃぐ奴らがうるさかった。むしゃくしゃしていた。誰でもよかった」と供述したという。

起きてしまった事件。それはもしかしたら防げたかもしれない、凄惨な悲劇。自分は知っていた。知っていたのに、止められなかった。

(だから――僕が殺したも、同然だ。)

これが、裕明は自らを「人殺し」と称する所以だというのだ。

第十六話 慈愛の罠(二)邂逅