第六章 正義の定義

【後に発見された『見えざる影』と大竹幸彦の通話記録】
「彼はある種の情熱を内面に秘めていました。己の正義を貫かんための、そしてそれを実現するための強い意志です。しかし、それが『世間』とズレを起こした時、彼の『正義』と言う名の情熱は、何と呼ばれるかご存知ですか」
「……さぁ」
「非常に陳腐な言葉です」
「何ですか?」
「狂気」
「……」
「狂気は凶器。意志は刃となって彼自身を蝕み始めました。 彼が『正義』の欺瞞的象徴である警視庁に入庁したことは、彼の内包された狂気を呼び覚ます契機になってしまったのです」
「皮肉な話ですね」
「しかし面白くなってきました。ここで大竹君、あなたに質問です」
「はい?」
「無人島で、大木がバリバリと大きな音を立てて倒れた、というのが既成事実だったとして、しかしそれを誰も聞いていなかった。その場合、『大木が音を立てて倒れた』ということは人々に事実として認識されますか?」
「何を言ってるんですか」
「殺された土竜刑事のことですよ」
「モグラ?」
「認知されなければ事実として成立しないのか? 逆に、認知すれば事実として成立するのか」
「言葉遊びなら結構です」
「あなたに問うているのですよ。『あれ』は果たして本当に存在したのか? 彼の中でだけ自己完結していたことなのか。それともこの街が生んだ『幻影』なのか」
「幻聴や妄想はあなたの専門分野じゃないですか」
「彼の認知した『あれ』は病気のそれではありません。それは僕が断言しましょう」
「大した診断ですね。彼は自分の正義を貫こうと固執したばかりに、乖離により(現実との乖離に極度のストレスから)精神的な脆さを露呈し、結果その『幻影』に囚われた。そして彼の人格の隙間に誇大妄想が入りこんだ。そう考えるのが妥当じゃないですか」
「大竹くん、君、刑事など辞めて、精神科医に転職するのはいかがですか」
「ご免です。そもそも、俺はあなたに葉山の精神鑑定を秘密裏に依頼しに来ただけで――」
「そんなもの、必要ありませんよ」
「……そうですかね?」
「彼は至って正常です。彼の内的世界に於いてはね。それがいわゆる世界とズレを起こしていることは確かですが」
「あいつは、おかしいです」
「そう。一般的な価値観からはずれているかもしれません。しかし、それは異常正常という次元の話ではありません。君は万物の軸ですか?」
「は?」
「君に計り知れないからと言って彼が異常だと決めつけるのは視野狭窄です。大多数に受け入れられないからという理由で突出した『個』を排除するのは、人間社会の根本的な歪みでしょう。彼もまた、そんな社会の犠牲者なんですよ」
「……終わらないんですね、まだ」
「その表現は正しくない。これから『始まる』のだから」
「土竜……」
「彼の世界はようやく解放されて回りだすのです。僕はその手伝いをしただけ」
「何故です」
「何がですか」
「何故、葉山に構うんですか? あいつは十分苦しんだ。恐らく、書類送検で不起訴処分になるでしょう。ならば、もういいじゃないですか」
「せっかくここまで来たのに、可哀想ですよ」
「可哀想?」
「彼はいずれ自分で答えを出すでしょう。いずれもうすぐ釈放でしょ? 新しい舞台はこれから始まるのです」
「……似たようなことを、あいつも言ってました。舞台がどうの……って。あなたは何をするつもりですか」
「何も」
「?」
「何もしません。ただ一言、彼に伝えるべき言葉を伝える以外は」
「それは、何ですか」
「あなたには、言えませんねぇ」