笑っておくれ

こんばんは、笹塚です。せっかく元号が変わったので、なんとなく抱負とか目標を立ててみようと思ったのですが、平成を振り返ってみて「これからはこうなりたいな」というイメージを思い描くことができたので、備忘録として記しておきます。

私は若かりし頃、演劇に情熱を注いでおりました。といっても、大学生のサークル活動から派生した小さな演劇ユニットで、高円寺や池袋などの片隅にある、舞台併設のカフェなどでステージに立っていました。

演劇の内容は、9割がた、コメディでした。「人を笑わせる」というのは実はとても難しくて、セリフの間合いとか(だから「間違い」という言葉があるのかな)、呼吸とか、声色とか、熱気とか、とにかくナマモノな舞台の空気をいかに「笑い」に変えるかの、真剣勝負なのです。

「人を笑わせる」ことと「人に笑われる」ことには天と地ほどの差がありますが、私はありがたいことに(?)中学時代に周囲からさんざんコケにされてズタボロになるまで笑われたので、なんかもう、だったら能動的に明るい笑いを皆さまに提供したい(なんか企業のキャッチコピーみたいだね)と思って、コメディをひたすら演じていました。

ちなみに、欧米などではコメディアンやコメディエンヌは高尚な職業とされているそうです。他人をいじりまわして毒を吐きつけて笑い者にするようなことは決してせず(これ、一部の方々へのアイロニーですから、伝われ)、人々に笑顔を届けるお仕事なのだとか。そんなコメディエンヌになりたいと、本気で考えた時期もありました。

今とはまったく体型が違ったので(ここまでふくふくになったのは精神科の薬の副作用……のせいにしてみる!歳食って代謝が激落ちしたのも事実だけど!)赤いミニスカートに胸元のカットが深いキャミソール、黒の網タイツにハイヒール、仕上げに白衣を着たマッドサイエンティストの役で生まれて初めて「高笑い」をするという舞台があったのですが、本読み(台本を見ながらセリフを言う練習)の段階でそのドSな笑い声だけは完成形に近く、サークル仲間から多角的なベクトルで心配されたのもいい思い出です。黒歴史って、誰にもあると思うけど、笑って思い出せたらそれもう宝物だよね、とか言ってみる令和初日。

そして、いつのまにか「笹塚は演劇でブレイクスルーしたからモノマネがうまいだろう」という今になっても文脈の理解に苦しむ見解がサークル発で学内に広がり(小さな大学だったので、さまざまな噂や評判が生易しくパンデミック状態になる環境も手伝ったと思う)、あまりよく知らない友達?とかに、学食などでこちらがランチのカレーを頬張っている時などに、

「ねぇねぇ、松山千春の歌真似して」

と言われれば、私はオンデマンドでスプーンをマイクに見立てて、

「長〜い〜夜〜♪」

と歌ったり、別の場面では授業前に席について偶然隣の席になった人に

「ねぇねぇ、阿藤快のモノマネして」

と言われれば何のためらいもなく

「なんだかなぁ〜」

とか言って、大いに笑ってもらっていました(もちろん、中学時代のような悪質なものではありませんでした)。

当時のモノマネレパートリーはこちら。
・松山千春
・阿藤快
・鈴木宗男
・谷村新司(アリス)
・田中邦衛

……もっとあった気がするけど、忘れちゃった。

そう、おっさんばかりなのです。だから当然、「すごく似ている」ということはない(と信じたい)のですが、雰囲気とかちょっとしたニュアンス、クセ、そういったものを模倣するのが上手かったようです。これ、なんの自慢にもなんねぇ。

ところが、何度も書いていますが私は大学三年生のときに精神的に変調をきたし、結局精神科にしばらく入院をしました。発病当時、私は大学近くのアパートで一人暮らしをしていましたが、それも立ち行かなくなりました。実家から駆けつけた両親の憔悴しきって疲れ切った顔は、今でも忘れられません。そうして笹塚家から、笑顔が消えた日々が数年間流れることとなるのですが、ある時(退院して実家に引きこもっていた頃)なんとなく観ていた「笑点」の大喜利のコーナーで、ベテラン落語家の皆さんの軽妙な掛け合いというか愛にあふれたディスり合いを見て、自然と涙がこぼれたことがあって。

いやいや、笑うための番組でなんで泣いてるんだろう、とか自分でも思いましたが、彼らは人の心を揺さぶるプロフェッショナルです。この時、私は自分の中にある「何か」をひどく引っ掻き回された気がしたのです。

このことがきっかけで、母と一緒に落語を生で聞きに行く機会が生まれ、しばらくいろいろな場所に連れて行ってもらいました。新宿末廣亭や浅草などの有名なところから神楽坂にあった赤城神社(今はもうキレイに改築されちゃいましたね)といった、ちょっとレアなところとか。

それで、私は痛感しました。人を笑顔にすることは、とても尊いことなんだ。だから、私みたいな未熟者が調子に乗ってしてはいけないことだったんだ……と。

そして時は流れて、平成後半。ものすごく紆余曲折を経てようやく出会った、のちに夫となる彼が、人生のバイブルにしているらしいのが「北の国から」でした。まだ交際しはじめて間もない頃、油断した私は居酒屋で、飲めもしないカクテルを飲んでいた勢いもあり、彼に向かって、

「子どもがまだ、食ってる途中でしょうが!」

というあの超名シーン(もうわかる人だけわかればいいよ)のマネを披露してしまったのです。

やっちまった……!

酔いは一気にさめ、もうだめだどうしよう、と凍りついた刹那、彼は

「すご……、似てる……っ! もっかいお願いします!」

と、手を叩いてめちゃくちゃ笑ってくれたのです。

なんだか、自分に長らくまとわりついていた呪縛が、ふっと解けた瞬間でした。

そうだ、多くの人々を笑顔にできなくても、自分にとって大切な人を笑顔にすることなら、してもいいのかもしれない。きっとそれしかできないし、いや、表現を変えよう、それならできるかもしれない。大切な人のためなら、モノマネのレパートリーを増やすこともやぶさかでない。

というわけで、令和突入にあたっては、

自分と自分の大切な人をたくさん笑顔にする

ことを心がけて暮らしていきたいと思います。もう心を開いていない相手に二度とモノマネは披露しないと決めたので、逆に私が突然おっさんのモノマネをし始めたら、「ああ、仲良くなりたいんだな」と察して優しく笑ってやってください。

長くなっちゃいました。ここまで読んでくれて、心琴、感激!おやすみなさい。