第五章 その面影

 目を覚ますと、あっけなく朝が訪れていた。雨上がりの、いつもの通りの朝。日が射しこんで、妙に暖かい。
玄関先で伏せたためか、肩がガチガチに痛む。頭痛も相変わらずで疎ましかった。
何より、意識が戻ると同時に昨夜の光景や言葉が思い出されてしまい、彼女にとっては最悪の目覚めだった。
「……っ」
彼女は半ば反射的に、汚れたコートのポケットに入れていた携帯電話を確認した。メールが一通届いている。
本来あまりメールを好まない彼女だったが、こればかりは開封せずにいられなかった。
差出人:保坂 晃
件名:no subject
本文:愛してたよ。

――約束など一度もしたことはなかった。
「愛」なんて言葉、軽率すぎて使う気になれないよ、とかつて保坂は言っていた。
今さら、何を言っているのだ?
保坂が姿を消して数週間が過ぎた。時は容赦なく淀みなく流れ、彼女は日々の実習に忙殺されていく。
忘れたかった。佐伯の死も、保坂の罪も、自分の存在も。
実習最終日、人間の解剖を実際に行うのだが、彼女に提供されたのは、身元不明の顔が焼けただれた遺体だった。
どうやら自殺らしい。すでにそう断定されているので、実習生に回ってきたといったところだろう。
だが、人手不足の一言で片づけるには、あまりにも残酷な巡り合わせだった。
「……あ」
あの後、保坂に何が起きたのか、保坂がどうしたのかはもう「彼女にしか」わからない。否、彼女だからこそわかる。
彼女はカエルの解剖で使い慣れたメスを、胸元でギュッと握りしめた。目を剥かずにはいられなかった。
本当は目を背けたかった、現実。
「――、おはよう」
今、冷たい解剖台の上で彼女の目の前に横たわる保坂。開ききった瞳孔が彼女を見ることはもうない。
それこそ、これが彼女に十字架を背負わす行為だと知りつくした上での決断ならば、保坂は文字通り命がけで彼女を愛して「いた」ことになる。その身勝手さが、彼女をズタズタに引き裂く事をわかっていたとしたら、
保坂は3人もの人間を「殺した」ことになる。
臆病な愛情しか持てなかった佐伯。
その佐伯を手にかけた自分自身。
そして――ミスの「恋心」を。
「愛してるよ、――……」