第三章 さようならだけはいわないで

「葉山くん……!?」

若宮郁子の悲鳴にも似た声が、駅のホームに響く。葉山大志は、返り血で赤く染まったスーツを着たまま、ゆらりと起き上がって初めて、若宮の存在を確認した。そして絞り出すような声で一言、こう言った。

「僕を……解剖してください」

若宮は状況が全く把握できなかった。しかし目の前にいるのが友人であることには違いないので、近寄って手を差し出そうとした。

「葉山くん、そのケガどうしたの!?」

葉山の血で汚れた右手が、若宮の白い左手を掴もうとしたその時だ。唐突に葉山は若宮の手を跳ねのけ、呻くような声で、

「触るな」

と若宮を威嚇した。若宮は戸惑いを極力抑え、

「なぜ、君がここにいるの」

毅然として問うた。

「……自分の正義を貫くためだ」

若宮は葉山の言葉の真意を計りかねたが、直感で危機を感じ彼から数歩退いた。―――-彼女の勘は的中した。葉山はぎこちない動きではあったが、『凶器』を若宮に向けようとしたのだ。

朝のホームには次の電車を待つ通勤客がちらほらいた。そのうちの数人は物珍しそうに二人を見ている。若宮はあまりことを荒立てたくなかったので、優しく声をかけた。

「それをしまって」

言葉で彼を制しようとしたのだ。だが、葉山は右手に握った凶器を放そうとしない。

「公務執行妨害よ」

「それがどうした」

「葉山君」

若宮は語気を強めて彼の名を呼んだ。だが、

「……俺を忘れるな。決して忘れるな」

「え?」

瞬転、葉山の表情が一変する。若宮を睨んでいた両目が宙を彷徨い、無表情の状態が数秒続いた。

「葉山君……?」

葉山は若宮の呼びかけに応えない。

「……っ、うっ」

彼は苦悶の表情を浮かべると、血濡れた爪先を若宮に見せた。彼女は息を飲んだ。彼のスーツについた血は、葉山本人のものではなかったと今気付いたのだ。若宮は、今日未明に板橋区で発生した事件と葉山とが、なんの迂遠もなく繋がっているのだと確信した。しかし、なぜ彼が。

「若宮さん……?」

若宮はハッとして葉山を見た。先ほどまでの威圧感や威嚇の色の一切ない声色であった。

「葉山くん、君、どうしたの」

若宮はなるべく彼を刺激しないようにソフトな口調で訊いた。すると葉山は、自分のスーツについた血痕を右手で押さえながら、

「わからない」

と言って、うなだれてしまった。

「わからないんだ。自分は一体、誰なのか」

「え?」

「僕はとんでもないことをしてしまった」

「……今朝の事件のことね」

「違う」

「違うの?」

若宮は、今朝発生した事件と彼が無関係であると思いたくて、その言葉に望みをかけた。しかし、その期待は瞬時に破られることになる。

「僕には課せられた使命がある。なのに、それを遂行できそうにない」

「使命? 上部からの命令のこと?」

「僕は、正義だ」

葉山は明らかに様子がおかしい。それに返り血の理由を聞き出すべきだと思ったのだが、恐れている答えを聞きたくなくて、若宮は口をつぐんだ。葉山はそんな若宮の内心など知りもせず、再びその場に座り込んでしまった。

「教えてくれ……」

ゆらりと手を伸ばし、若宮の持つ凶器に手を伸ばそうとする。当然、若宮はそれを拒否する。

「葉山君。あなた本当に……」

「若宮さん、僕はどうすればいい?」

「……」

他の刑事がやってくる前でよかったと思う。若宮は、自分でも驚くようなことを口にした。

「一緒に逃げよう」