第三章 さようならだけはいわないで

エリートキャリアコースのレールに乗っているのが堪らなく嫌だった若宮が「現場」を選んだことは、署内でもちょっとした話題になった。一番聞かれたのが

「現場をなめるな」

次に多かったのは、

「もったいない」

さらには

「親のコネだけで生きていけると思っているのか」

等々。もっと心ないことを言われたりもした。しかし、周囲の評価などどうでもよかった。彼女は、父の遺志を継いで『現場』にこだわった。それは、父の後ろ姿を見て育ったことが大きな理由である。

父はそれなりの地位にありながら、常に現場にいる人間のことをよく考え、時に行動を起こして東京の治安維持に尽力した人物だった。

そんな父は、交通事故であっけなく逝ってしまった。若宮は、父が守ってきた東京の街を、今度は自分が守るのだと決意した。そしてその決意は、彼女を動かす燃料となって心に在る。

若宮は着ていたコートを葉山にかけ、血痕が見えないように彼の体を支え、起き上がらせた。

「逃げるって、どこに?」

葉山が疲弊しきった声で問う。若宮は自分が何に必死になっているのかはわからなかったが、とにかく心が命じてように思えた、葉山の逃走を幇助することを。

「どこでもいいよ。ここから逃げよう」

葉山の足取りは次第に確かなものになってきた。若宮の助けが無くても自力で歩けるようだ。

「次の飯能行きに乗ろう」

「わかった……」

葉山は戸惑いを覚えながらも、若宮に言われるままにしていた。そうすることしかできなかった。

程なくして電車が来た。通勤ラッシュとは反対方面の電車なので、そんなに人は乗っていない。二人は隅の優先席に身を沈ませた。

電車が発車して間もなく、強い疲労から葉山はアッサリと眠りに入ってしまった。電車に揺られながら、葉山は若宮の肩に寄り掛かる。意図してはいないだろうが、寝顔はまるで少年のようであった。

若宮はこの時初めて、自分の動悸が激しくなっていたことに気づいた。

自分は何をしているんだろう。例えば彼が恋人だったら、愛の逃避行だ。しかし自分と葉山は年齢が一緒というだけの、ただの職場の友人である。……それだけだ。……これは何だろう? 逃避行には違いないが、私は私の信念や正義を、友情の前に破ろうとしているんだろうか。そもそもそれを天秤に掛けている時点で、私は十分自分を裏切っているのかもしれない。しかし、自分の信念がどうこう、の前に守るべきものが目の前にあったとしたら、そちらを選ぶことこそが、正義ってやつなんじゃないだろうか。

電車は練馬を通過し、埼玉方面へ進んでいる。テンポの一定した電車の揺らぎに、若宮はそれでも眠気を催さなかった。それだけ神経が張り詰めている証拠だろう。

若宮が貸しているコートは、葉山が着るには小さすぎるが、彼のスーツの返り血を隠すにはちょうどよかった。だがどうしてもチグハグな格好に見えてしまう。しかしそれを周囲の乗客が誰も不審に思わない。それだけ都会では、人々が他人に興味を持たないという証拠だ。

石神井公園駅で、特急電車の通過待ちのために電車はホームで数分停車した。若宮は葉山の体をそっとよけてホームに降り、この時間を利用して携帯電話を鞄から取り出して確認した。

着信件数は5件。いずれも職場――警視庁からである。若宮は急いで掛け直した。

「もしもし、若宮です。はい」

心臓が口から出るんじゃないかというくらいの緊張感を彼女は味わった。電話の相手は上司で、「どこで油を売っているんだ」との怒号を浴びせられた。

だが、帰庁命令ではないので、

「申し訳ありませんが……、今日は体調が優れないので、帰ります……すみません」

とぎこちなく謝った。本当にこんな理由なら、現場人間失格だな、と若宮は自分の口からでまかせ具合に呆れた。こんなウソ、すぐにばれるに決まっている。

しかし、背に腹は代えられない。上司にチクリと嫌味を言われたが、そんなものはどうでもよかった。若宮は電話を切ると小さく深呼吸した。

「……よし」

何が「よし」なのかは自分でもよくわからなかったが、心のままに口をついて出てきた言葉なので、いちいち根拠づけすることには意味がない。

電車に戻ると、葉山は頭をうな垂れて、まだ眠っているようだった。

「……葉山くん……」

若宮はもう一か所に、電話をすべきかどうか非常に迷っていた。あの人に協力を仰ぐのは時折あることだが、事が事なだけに相談しづらい。

電車が発車した。行くあてもないまま、二人は乗客のあまりいない車両の中、寄り添うように座っている。右肩に葉山の重みと体温を感じながら、若宮は、通り過ぎていく風景を見つめていた。

ふと若宮は、葉山に声をかけてもらった日のことを思い出した。自分では何でもないと思っていた、ある残業の日のことを。