狂っててなにがいけないんだよ。

そんなに固い話を書くつもりはないし、専門用語をバンバン飛ばすのは美学にそぐわないので、なるべく伝わりやすい表現を心がけて書こうと思ったテーマが、「こんな社会だったらいいな」。

「社会」という枠組みで語るにはやや狭いかもしれないけれど、私はここ数年ずっと思っていることがあります。

私の常日頃の発信からも読み取ってもらえるかもしれないけれど、

狂っててなにがいけないんだよ。

心の底から、そう思うのです。

1.ホスピタリズムという言葉

これはもしかしたら「あるある」なのかもしれないけれど、精神科の病院やクリニックに行くと具合が悪くなる(気がする)ことって、ありませんか?

諸事情があり、私は先日、今まで出会った精神科医の中で唯一「この人は医師だ」と感じられた女医、Nさんのもとから卒業したのですが(そのエピソードは、書ければそのうち書きます)、Nさんは私がかつて入院していた大きな精神科病院に勤めています。その精神科病院の玄関がどどーん! と見えてくると、途端に「なんか聴覚が過敏かな」とヘッドフォンを外してみたり、「なんか落ち込んできた……」と胸元を押さえてみたり、とか。そんな「ちょおおっ!」とツッコミを入れたくなるようなことを、十年以上前なら私はリアルにしていたかもしれないです。

薄めて言うと、「こんな場所(精神科)にかかっているような自分はダメだ」という感情が根底にあったので、自己肯定感をずるずると下げる類の行為、ある意味で精神的な自傷行為に、諦観を言い訳にして走っていた気がします。

入院していた頃だって、ずっと「退院したい」とは思っていた訳ではありませんでした。このまま入院していては実習に行けない、実習に行けなかったら国家試験を受けられない、試験を受けないと専門家になれない……(この夢は最高にクールな形でぶっ壊れました)。頭の隅ではそうわかっていても、起床・就寝時間、三度の食事、入浴、服薬、小遣いなど、日常生活のありとあらゆる場面を管理される生活に慣れてくると、

「ここは年中エアコンも聞いているし、医者や看護師のご機嫌をうかがっていい子ちゃんでいればそんなに悪い目にも遭わないし(逆の文脈をぜひ読み取ってください)、別にもう退院しなくていいんじゃないか。むしろ外に出たらまたいじめられるかもしれないし、家族にも迷惑だろうし……」

たった一年間弱入院しただけで、こんな塩梅で洗脳されそうになりました。典型的なホスピタリズム(施設症)というやつです。実際は診療報酬の影響なのか何なのか、追い出されるような形で退院したのですが(その後ガッツリ引きこもったけどさ)、今こうしてnoteを綴れる日々を送れていることを考えると、唐突に退院を告げられたあの時、「嫌だ、入院させておいてください」と言わなくて良かった。。と胸をなでおろすばかりです。

2.誰のための何なのか・祭

あまりオンタイムでアップするとまずいかなーと思っていたのですが、このテーマで書く際には欠かせないことと感じたので本人に確認をしたところ快諾してもらえたので書きます。

先日、某精神科病院で開催された「納涼祭」に夫婦で遊びに行きました。そこに共通の友達が入院しているのです。納涼祭の趣旨は、「地域に開かれた病院であることをアピールする」といったところでしょうか。

けれど、まずその病院に行くまでが遠いのです。日に数本のシャトルバスを逃したら、あとは路線バスで最寄りバス停で降りて徒歩20分。風光明媚だとか自然が豊かだとか緑に癒されるだとか、そんな表現はいくらでも盛れるのですが、ぶっちゃけ山の中でした。あれのどこがどう「地域に開かれて」いるのかをつまびらかに説明できる人がいたら尊敬します(行間読んでね)。

お祭自体は、いくつかの出店と、いつも駐車場になっているらしい場所に盆踊りのやぐらが建てられていました。新オレンジプランの影響か、高齢者が非常に多かったです。

やぐらから文字通り上から目線な医師たちの挨拶(誰も聞いてなかったのが印象的でした)のあと、大音量で音楽が流れ始め、盆踊りが始まりました。

いつ練習したんだろう……というほど手際のよい職員たちの盆踊りにまざって、患者さんたちも数人ぎこちなく踊っていたのですが、表情が全然楽しそうじゃなかったのが見ててつらかったです。

というかあの音量は、特に急性期の患者さんには毒でしかないのでは? 私だったらきっと苦しくて暴れていたかもしれない。あ、でもそっか、暴れたら暴れたで「問題行動」と見做して、ほいほいと身体拘束するのが合法だもんね、この国は。

私が苦々しい表情をしてやぐらを睨みつけていると、フライドポテトをとってきたはずの夫が私以上に苦々しい表情で戻ってきました。

「どうしたの」

「Cちゃん、会えないって」

「えっ」

「具合が悪いんだって、応対した看護師が言ってた。どこまで本当かはわからない」

Cちゃんとは、私たち夫婦の共通の友達です。つい先日も我が家に「今度納涼祭だから、遊びに来てね」とハガキをくれていました。

私は周囲を見回しました。看護師、看護助手、介護士、精神保健福祉士、みんなみんな懸命です。うん、一生懸命なのはわかるよ。なにせ人の命と尊厳に直結する仕事だから。そもそも一生懸命じゃなきゃおかしいんだけどね。医師? ごめん、私たちからしたら論外だ。俎上にのせるまでもない。

「ケアする者」と「ケアされる者」の間には、三途の川でも流れているのだろうか。それか強固なATフィールド? 資格という名の特権階級? あ、流行している自己責任&思いやり・ほどこし・やさしさとかそういうアレですか?

馬鹿も休み休み言え。

誰のなんのためのお祭だったんだろう? わかんない。病院のホームページを見たら、どうも職員の福利厚生の一環でもあるらしく。うぇぇ。

Cちゃんから「お祭は楽しかったです。来年はきてね」とハガキが届いた時、マンションの郵便受けの前で泣きそうになってしまったのは、Cちゃんには内緒にしておいてください。

来年まで入院してるつもりかよ。そんなことさせるかよ、とは本気で思っています。

3.だって台風だったんだもの

昨日の夜、私の住む町は暴風雨でマンションの窓を強烈な雨粒が叩き続けていました。私は昨日のnoteを書きながら気ままにラジオを聴いていたのですが、そこへノイズが混じりました。といっても、ラジオの電波は良好です。ノイズと表現したのは、夫の小さな笑い声でした。youtubeで笑える動画でも観ているのかと思いましたが、彼は窓辺のソファに腰かけて、雨風が窓ガラスを揺らす様子や唸りを上げる空気の渦に耳を澄ませ、かろうじて私が聞き取れる程度の音量で笑っていました。

その横で、私はnoteを書いていたのです。

それが私たちの日常だし、起きている事象に対してあれこれ感情をのせるのは、あくまで後づけの作業です。精神障害がファッション化する風潮こそ憂いますが、精神障害とはその人の人生の歩みに強く紐づくものであると私は考えています。ゆえに一概に「可哀想」だとか「キチ草」だとか他人事として吐き捨てる方々はスルーするとして、私が問い直したいのは、精神障害を持つ本人たちが、自分の障害についてどう評価をしているんだろう、という視点です。

例えば、幻聴が聞こえたとします。以前の私なら、「ああ、また聞こえてしまった。やっぱりだめだ、ちゃんとお医者さんがくれたお薬を飲まなきゃ」と妄信していたでしょう。で、その結果、薬の副作用のほうが強くて思考が抑制されたりよだれが止まらなくなって外出が怖くなってしまったりして。それでも「体調が悪いのは、私の努力が足りないんだ」とか思っちゃって、あれこれネットサーフィンやら図書館通いをして「医学的な知識」を仕入れようとしたり(今現在、このようなことをしている人を責めたいわけではなく、かつて自分がそうだったというだけのことです)。

けれど、夫を見ていると思うのです。彼は自分の中の「狂気(とマジョリティが評価したがる部分)」に非常に素直です。たまにどこかへ思考を旅させます。昔は、正直その光景に異様さを感じていた私ですが、彼を知れば知るほど、その感情がいかに上っ面だったかを痛感します。

昨日は「それ」が特に顕著でした。風がびゅうびゅうと吹くたび、彼は目をきゅっと細めていたのですが、それが睨んでいるのか微笑んでいるのかが私にはわからなかったものの、自分の中のそういう部分に肯定的であれるという意味では、とても幸せな人なんだろうな、と感じます。そしてその幸せは、ある種、一線を越えたからこそ持ちうる強さに裏打ちされているんだろうな、と。

電車のダイヤだってあんなに乱れたんだから、窓辺で幻影と遊ぶくらい、かわいいものです。だって、台風だったんだもの。

4.あなたの隣に私、私の隣にあなた

昨今、生きづらさを訴える人が本当に増えています。そこにマジョリティに都合のいい「自己責任論」「正気」のものさしをあてがうことは、誰にとっても自滅的な行為です。誰得かよって、誰にとっても害悪でしかありません。でも、あらゆる現状は岩のごとく動きません。

じゃあ、どうすりゃいいのよ? という質問を、時々講演等で受けます。そういう時、私は最近ではこのように答えるようにしています。

「正気と狂気の境界線はどこでしょうか。正気とは正義でしょうか。では、正義とは絶対的な価値でしょうか。だとしたら、ちょっと怖くないですか」

質問に質問で答えるスタイルです。自分で考えてみたら? ヒントはたくさん提供しましたよ、と。

当然ですが、街には多くの属性の人が暮らしています。その中にはもちろん精神障害者もいます。今、電車の隣に座っている人はもしかしたら精神障害者かもしれない。そんなことは、あってごく自然なことです。今ここで「うぇっ」となった方が万が一いたら、それはあくまであなたの中の「後づけドレッシングな無知」です。無知≒恥、という言葉も添えておきますね。

私は、精神障害者は施設や病院ではなくて地域で暮らすことはもっと確実に保障されるべきことと考えているし、多くの医療職・支援者・専門家が囚われている特権意識によって自尊心を好き放題に潰されている仲間がいることに怒りを覚えています。

けれど、反対! 反対! と言っているだけでもはじまらないので、「じゃあ、どうすりゃいいのよ?」を、障害者の仲間はもちろんのこと、(ごく)一部の「わかっている」医療職・支援者・専門家の彼ら彼女らとともに模索している最中です。

そんな中でも、台風が来たらしっかり狂気に身を預けられる、そんな夫に惚れ直した嵐の日曜日。あなたの隣に私、私の隣にあなたがいる。それだけでもう、いいんじゃないかって思わせてくれるほどのひどい狂いっぷりを、ありがとう。

なんだ結局いつものアレですね。好きなものは好きと言える気持ちはいつでも、ぎゅーっとしていたいですよね。ねー。

5.風穴を穿つ一撃となれ

「こんな社会だったらいいな」。誰もがその人らしく……を本気で行くのなら、私たちのような夫婦も自分たちらしく、狂っていて上等な、それを是認できるような社会であってほしいです。もちろん、私は誰がどこで「狂って」いてもそれは自由だと思っています。狂っていることを否定してかかるような価値観からは、ずいぶん前に足を洗いました。 

幻聴や妄想を薬でやっつけましょう、障害を軽減(消滅)させましょう、という中途半端な医学的(それすらあやしい)アプローチなんてのは、とうに終わった昭和の話です。

あれ、今ってもう令和じゃなかった? 社会が、社会を構成する一人ひとりが、少しずつ出せる力と知恵を差しだしあって、今の巨大な岩のような「偏見と諦観の塊」に、一刻も早くヒビを入れられたらいいな。小さな声でも集結したら、風穴を穿つ一撃になるんじゃないですかね。とか夢想してる。

止まってられるかよ。