第三話 心臓の形(三)扉

高畑美奈子は「その日」も、自宅最寄りの中野駅からいつもと同じダイヤの多摩方面の中央線に乗り、乗り換えの立川駅のエキナカにあるベーカリー「キィニョン」でお気に入りの焼きカレーパンをゲットし、足早に青梅線を目指していた。青梅線は平日のラッシュ時間帯以外は一時間に五本程度しか運行されていないため、美奈子はやや駆け足で列車の停車している1番線ホームへと階段を駆け下りた。

発車ベルが鳴り始めた頃に、ようやくホームに到着した。青梅線はドアの開閉がボタン式なのだが、そのことを美奈子の地元の知り合いなどは恐らく知りもしないだろう。緑色に点灯するボタンを押すと、ドアが小気味よいチャイム音とともに開いて美奈子を迎え入れる。先客は高齢者が目立ったが、世間は夏休みということもあってか、昭和記念公園にレジャーに行くと思われる家族連れもちらほら見かけられた。多少の混雑は覚悟していたが、案の定、一つ先の西立川駅で多くの乗客が降りて行ったので、それ以降は座席を確保できたのがありがたかった。

青梅線は中央線とは「空気感」が違うと美奈子は感じている。彼女にとって、立川以西ののどかな景色は、自分を受け入れてくれるような安心感を与えてくれるのだ。高いビル群や交差する道路などは見えない。徐々に深まりゆく緑色が、人々の負の感情を鎮めてくれる、そんな気すらしている。

立川駅から奥多摩駅まで直通する列車が利用する時間帯には存在しないため、美奈子は青梅駅で降りて乗り継ぎの電車を待つ。その間にホームで「キィニョン」で買った焼きカレーパンにかじりつく。これが、彼女にとってはちょっとした幸せを感じる瞬間なのだ。

この夏の暑さは異常ともいえて、熱中症で亡くなる人のニュースが毎日絶えず流されるほどだ。駅のホームの屋根陰にいるとはいえ、汗がつぎつぎに額や首元に噴き出してくる。美奈子は強烈な喉の渇きを覚え、水筒をカバンから取り出し、家で補充してきた麦茶を飲んだ。

やがて目当ての列車がホームにやってきたので、すぐにボタンを押して車内に入ると、しっかりとクーラーが効いていて、美奈子はホッと一息をついた。青梅駅から先、終点の奥多摩駅までの区間には、「東京アドベンチャーライン」という愛称がつけられているそうで、観光目的と思しき乗客もちらほらいたものの、余裕で座ることができた。終点に近づくにつれ、乗客よりも降客のほうが多くなり、奥多摩駅に着いた時には車両に乗っていたのは美奈子一人だった。終着駅でホームに降りたのは彼女と、高齢の夫婦だけだったように見えた。

美奈子は出発から実に2時間以上かけて奥多摩駅に到着した。13時28分に奥多摩駅前を始発で発車する清東橋行のバスに間に合うよう、駅構内のトイレで用を足してバス乗り場へ向かう。奥多摩駅からは徒歩で五分も行けば日原川の河川敷に出られる。今時期はバーベキューなどで盛り上がる若者も多いようだが、彼ら彼女らのほとんどは車でここまでやってくるため、電車が混み合うことは滅多にない。この時期なら「奥多摩納涼記念花火大会」の日に毎年、花火大会実行委員会の公式ツイッターアカウントから混雑予想などが出るほどの盛り上がりをみせるらしいが、彼女には全く関係のないことだ。

目的地近くのバス停で降りた美奈子は、タッチしたPASMOをカバンにしまうと、都心とはひと味もふた味も違う澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「奥多摩よつばクリニック」は、バス停から緑の深い側道をさらに七分ほど歩いてようやくこぢんまりとした玄関口が見えてくる、ログハウスと見紛うつくりの小さな精神科だ。入口付近には自生する植物に混ざって、いつも丁寧に手入れされた四季折々の花が咲いている。きちんと管理する人がいるのだろう。今日は色とりどりのガーベラが目を楽しませてくれた。

「奥多摩よつばクリニック」は精神科単科の標榜をしており、一般的な偏見とともにイメージとして持たれがちな薄暗さなど皆無だ。むしろこの時期ならではの厳しい陽光を、堂々とそびえる樹々がほどよく遮ってくれるので、木漏れ日が心地よい空間に静かに佇んでいる。そこは「冷徹な白亜の巨塔」と違い、外観からして訪れる者を分け隔てなく受け入れる「寛容と余白」を醸し出しているかのようだ。

自宅からここまでたどり着くだけでも体力的にはじゅうぶん疲れるのだが、美奈子にはそれだけの労力をかける理由があった。

そっと木製のドアを押し開けると、喫茶店などでよく使われているドアベルがカランコロンと軽快な音を立てた。美奈子はまっすぐ、待合フロアの隅に設えられたソファに腰掛ける。天然水のウォーターサーバーのすぐ隣という特等席が空いていたので、迷わずにその場所を選んだ。というより、ソファはまったくのがら空きで、待合フロアの気温は天然の涼しさに満たされていたため、気を抜くとそのまま横になってグッスリ眠ってしまいそうなほどである。
カバンから一冊の文庫本を取り出し、栞を挟んでいたページを開く。左手でページをキープしながら右手でウォーターサーバーに手を伸ばして美味しい水をゲットする。これはなかなかのものぐさ加減だと、美奈子は我ながら感心する。

「奥多摩よつばクリニック」が他の医療機関と質を異にするのは、「すべてにおいて患者の自主性・主体性を尊重する」スタンスを徹底しているところだ。外来患者は来たいときに来院すればいいし、クリニックにやってきたところで、すぐに受付等の手続きを促されることもない。特に、美奈子のように遠路はるばるやってくる者にとっては、その「ゆるい姿勢」が大きな魅力の一つなのだ。

冷えた天然水で喉を潤した美奈子が読み始めたのは、中原中也の詩集「在りし日の歌」。詩歌を好んでアルチュール・ランボーに魅せられた思春期・青年期の人間が辿る王道の一冊といったところだろうか。

待合フロアを支える木柱に設えられた柱時計が午後二時を報せる。美奈子は一息ついたところで、受付兼医療事務に声をかけようとソファから立ち上がった。
ところが、いつも受付にいる「お姉さん」の姿が見えない。もしかして夏季休暇だろうか。小さな、しかもこんな辺境の地にあるクリニックなので、ここも他の医療現場と変わらずマンパワー不足なのもしれない。
いずれにせよ、そのうち誰かは来るだろうと思い、美奈子は再びソファに腰かけた。別にこちらとしては、診察室で主治医とじっくり話をして気持ちの整頓が少しでもできれば、特段、処方箋や薬をもらっているわけではないので一向に構わないのだ。だからこのまましばらく、ここで詩集を読んでいればいいのだろう、くらいに美奈子は考えていた。

ところが、柱時計の針が流暢に進み二時半を過ぎても、誰も受付にやってくる気配はない。美奈子は一抹の不安を抱き、ソファから立ち上がると待合フロアをうろうろ歩きまわりだした。受付用の窓口が薄暗いのは、節電などではなくて、単に本当に誰もいないということなのだろうか。

ウォーターサーバーの近くに大きめの水槽が置かれているのだが、そのろ過装置の稼働する微かなモーター音がやけにフロアに響いて聞こえた。美奈子の焦燥などどこ吹く風で水槽の中を涼しげに漂うクマノミたちに向かって、美奈子は思わず、「おーい……」と声をかけた。もちろん返事はない。返事があったらそれはそれで真夏のホラーである。それでも、今の美奈子は熱帯魚からでもいいから、誰かしらからの応答がほしいと切に願ってしまうほど、心もとなくなっていた。

待合フロアの奥は扉を二枚隔てて、入院患者たちのデイルーム(自由空間)に繋がっている。期せずして、その方向からパタパタと軽やかな足音が聞こえてきたので、美奈子は勢いよく振り向いた。

「あっ、美奈子ちゃん。今日はどうしたの?」

現れたのは、「奥多摩よつばクリニック」の看護師長を務める岸本だ。看護師といっても白衣やユニフォームを身につけているわけではなく、夏らしいハイビスカス柄のTシャツに動きやすさ重視の綿パン、その上から自分でクローバーの刺繍を施した白いエプロンを着用しており、医療専門職独特の威圧感がないどころか、患者にとって親しみを抱きやすい格好をしている。

誰かが来てくれた、それも信頼を寄せる岸本さんが来てくれた、と一気に張りつめていた緊張の糸が切れてしまった美奈子は、そのまま脱力してへなへなとソファに横になってしまった。

「あ、わ、大丈夫? 熱中症かしら……」

岸本が自分の右手を美奈子のおでこにあてる。それから脈拍を測りエプロンのポケットから清潔なガーゼを取り出して美奈子のこめかみに残っていた汗を拭きとる。さすがと言うべきだろう、実に手際が良い。

「熱中症じゃないみたいね。でも、ひとまず水分を摂って、深呼吸してみて」

「岸本さぁん」

思わず縋るような声を上げる美奈子に、岸本は首を思い切り傾げた。

「美奈子ちゃん、もしかして調子悪いの? 急患対応は今日はちょっと難しいんだけど、話を聞くくらいなら、もっとちゃんと冷房の効いた面会室に案内するけど……」

美奈子は目をぱちくりさせた。

「あの。私、いつもの通院に来ただけなんですけど」

「えっ?」

「えっ?」

岸本の目が点になる。ベテラン看護師にしてクリニック院長のパートナーである岸本は、うーんと腕組みしてしばし思案し、この状況で最も該当する可能性が高い事実を言い当てた。

「もしかしなくても美奈子ちゃん、知らないのね」

「何がですか?」

ポカンとする美奈子に、岸本は申し訳なさそうな表情になり、衝撃の事実を伝えた。

「今日ね……外来は休診なの」

「えっ!?」

「前回の診察時に木内が伝え忘れたのかしら。うん、きっとそうね。ごめんなさい」

「いえ……仕方ないです。木内先生、学会か何かですか?」

「まさか。木内がそんなもんに出るわけないじゃない。ソフトボール大会よ」

「ソフトボール大会?」

医師対抗・ソフトボール大会。白衣を着た偉そうな野郎どもが、白球ならぬ薄給を追いかけて競い合う……いや医師だから高給か……でも木内先生は所属学会を抜け出した身だからやっぱり薄給か……? どうでもいいけど、なんかシュールすぎないか。

あれこれと勝手に想像を広げ、美奈子は思わずふふっとふき出した。岸本はそれに対して「違うって」と丁重にツッコミを入れてくれる。その人間力の深さゆえ、患者からの人望も厚い。

「福祉圏域の機関の地区大会なの」

美奈子は驚きを禁じ得ず、すっとんきょうな声を出した。

「こんなめっちゃ暑いさなかに、皆さんでソフトボールですか?」

「しかも決勝なのよ」

「すごい!」

「いいえ。そもそも出場が2チームだから、初戦が決勝戦的なアレよ」

「はぁ……」

ちなみに対戦相手は、近隣地域の介護老人保健施設に勤める有志が結成した趣味レベルのチームらしく、そのためか今朝、「こっちは常に真剣勝負なんだから、絶対に負けるわけにはいかないんだ」と力強く宣言したのが、「奥多摩クッキーフォーチュンズ」の監督にしてピッチャー兼4番バッター、奥多摩よつばクリニック院長の木内その人である。

……いや、なんというか、そのあたりの情報を充実されても困るのだけれど。

美奈子はコップに残った天然水を飲み干すと、岸本に一つお願いをすることにした。

「あの、次のバスが来るまで、テキトーに過ごしてていいですか」

「もちろんオッケーよ。水も好きなだけ飲んでね。受付の飴とかクッキーも、テキトーに食べてね」

「ありがとうございます」

「とんでもない。本当にごめんなさいね。あの人にはしっかり言っておくから」

岸本は深々と頭を下げた。

「あ、でも、優勝したら少しは手加減してあげてください」

「さーて、どうしようかしらね」

そうニヤッと笑い、「じゃあ、このフロアの冷房も調整しておくわね」と言い残し、岸本は足早にデイルームへと去って行った。

状況がこうなってしまっては仕方がない。どうしようもないことを追求しても意味がないことは、美奈子もしっかりわきまえている。立地的にwi-fiが安定して入らないこともあり、スマホゲームなどで時間を潰すこともできない。ここは次のバスが来るまでの時間をフリータイムとせよという、星回りというかなんというか、とにかくそういうメッセージなのだろうと美奈子は受け止めることにした。

時間的にしばらく余裕ができた。普段は待合フロアと診察室の往復しかしないクリニックだが、水をたくさん飲んで体もだいぶ休まったことだし、ここはひとつ暇つぶしに、いつもは足を向けない裏庭のほうでも覗いてみようと思いついた美奈子は、文庫本をカバンにしまってクッキーを一個、口に放り込んだ。

玄関にあんなに愛らしいガーベラが植えられているのだから、きっと裏庭にだって、さぞ美しい花々が咲いていることだろう。せっかくならそれを見てみたいのだ。綺麗な花々の色彩を目に焼き付けてから家に帰ったって、そのことは誰にも責められないはずだから。

この美奈子のちょっとした冒険心、というよりいたずら心が、文字通り「開けてはいけない扉を開く」のは、どうやら時間の問題のようだ。

第四話 心臓の形(四)幻影