第六話 そういうこと

空腹で目が覚めた。朝食をロクに取っていなかったから無理もない。コーヒーのいい香りが真弓の鼻腔をつく。

「おはよう」

一階から様子を見に来た中野が声をかけた。

「あ、スミマセン、私、つい寝ちゃった」

慌てて立ち上がる真弓に、ハルコは親指をびしっと立てた。

「それだけ、あたしの演奏にα波が出てるって証拠だね」

「そんなわけないだろう」

すかさず言葉を挟んでくるのはもちろん彰だ。ハルコは手をひらひらさせて

「負け惜しみにしか聞こえませーん」

と言い返す。

「別に負けてない」

「勝ってもないでしょうよ」

「へりくつだな。受けてきた教育の質を疑う」

「やかましい! 音楽はハートなの、ソウルなの。理屈こねてるあんたには想像が及ばないだろうけど」

「ふうん。それは楽しそうだな。よかったよかった」

「馬鹿にしてんの?」

「察しろ」

「なんですって!」

この二人はいつもこのような感じなのだろうか。すっかり驚いている真弓のために、中野は二人を制した。

「はいはい、落ち着いて。真弓ちゃんが引いてるでしょ」

ハッとしたハルコが、キョトンとしている真弓のほうを向いた。

「ごめん。いつものことだから、気にしないで」

真弓はどう答えていいかわからず、「いいえ」と前置きしてから、こう口を滑らせた。

「仲、いいんですね」

「「どこが!?」」

反射的にリエゾンする二人。さらに異議を唱えたのは彰だ。

「平成生まれの軽薄な娘と、明治生まれの由緒ある文学青年の仲など、どこをどうひねっても良好になるわけないだろう」

「自分で『由緒ある』とか言うなよ。あと、別にあたしは軽くない」

そのやりとりを見て、真弓はころころと笑った。

「ほら、やっぱり。喧嘩するほど仲がいいっていいますもんね」

真弓が笑ったのをみて、中野はホッとした。

「良かった。彰のこと、どのタイミングで話そうかって思ってたから」

自分で淹れたコーヒーを一口飲んで、中野は真弓に問うた。

「率直に聞くけどさ、真弓ちゃん。怖くないの?」

「へ? 何がですか?」

「いや、だから幽霊とか、そういうの怖くないの?」

その問いに、真弓はふるふると首を横に振った。

「どちらかというと、幽霊であることよりも、目つきと言葉遣いが怖いです」

それを聞いて爆笑するハルコ。それをチラッと見てから彰は、

「別に、好きに言えばいい。『表現の自由』ってやつだ」

と不機嫌そうに言い捨てたので、真弓は慌てて頭を下げた。

「あの、スミマセン。他意はなかったんです」

そう言ってそっと顔を上げると、忽然と彰はいなくなっていた。

「あれ……?」

「あーぁ、拗ねたね、あいつ」

ニヤッと笑うハルコは、真弓の肩をポンと叩いた。

「そういうことだから、これからよろしくね。真弓ちゃん」

何が『そういうこと』なのかはイマイチわかりかねた真弓だったが、ハルコに歓迎されていることだけは理解できたので、

「はいっ、よろしくお願いします!」

元気に返事する。その様子を見て、中野は胸をなでおろした。

***
その日の4限目からようやく大学に顔を出した真弓は、香織に「出席票、書いといたよ。筆跡変えるの大変だったんだからね」と小言を食らってしまった。

「ごめんごめん。ありがと。5限終わったら香織はサークル見学だっけ?」

「うん。軽音楽かジャズ研にしようと思ってる」

香織は小さいころからピアノを習っていたらしく、高校時代も軽音楽部でキーボードを担当していたという。真弓はそれを純粋に羨んだ。

真弓の高校時代までといえば、帰宅部でしかもアルバイト禁止、たまに友達と地元のショッピングモールやゲームセンターやカラオケで遊ぶ程度の、なんとも平凡、いや無味乾燥な時間だった。青春らしい青春も謳歌していないし、その結果彼氏などもおらず、「なんとなく」のうちに過ぎてしまっている。

だから真弓には、大学に行ったらやりたいことがあった。それが、本屋兼カフェ「アリスの栞」でのアルバイトだった。真弓がその存在を知ったのは、地元の古本屋にあった「今行きたい! 素敵すぎる古民家カフェ10選」というムック本がきっかけだった。自分の志望する大学と同じ街に、『明治時代に建築された貴重な古民家をおしゃれに改装した、本も読めちゃう癒しの空間』があると知り、彼女は「アリスの栞」のドアを叩いたのである。

(「フツー」ねんて、もう、こりごり)

そんな想いが真弓の中にはあった。

だから尚更、アリスの栞に出る幽霊のことは、まるで真弓の青春にバラの花を一輪添えるように心に映えた。古民家カフェに文学青年の幽霊とは、それだけ真弓にとって、秀逸な組み合わせだった。しかも、結構なイケメンさん。申し分ない……ことは、ハルコとのやりとりを見れば全然ないのだけれど、性格に少々難があっても、もう大歓迎だ。

特段、口止めもされていなかったので、店の宣伝もかねてと思い、真弓は香織に『アリスの栞』に住みつく幽霊のことを話した。

てっきり笑われるかと思いきや、

「へー! すごいじゃない。私も遊びに行くよ」

意外にもノリのいい反応を香織は返してくれた。真弓は得意満面だ。

「じゃあさ、今度遊びに来てよ。サークルが休みの日でいいから」

「予定がわかったらラインするね」

「うん」

『非日常』が、大きな口を開けて自分を待っている。このことが、真弓にはもうどうしようもなく、嬉しいことだった。そう、彼女は、この時の自分の言動の軽率さが何を招くかなど、微塵も知る由はなかったのだった。

第七話 ポスター