白鴉

彼が神を自称しはじめてからも、私たちの生活になにか大きな変化が起きたわけではない。

彼は相変わらず寝坊するし、派手に忘れ物をするし、よく椅子の端にかばんの紐を引っかける。

自称とはいえ神なら予言のひとつもしてみたらどうかと茶化しても、それは僕の役目ではないと流されてしまった。

街なかの本屋に寄れば30分コースだ。純文学からゴシップ誌まで、気になった言葉があれば目を留めて、手に取ってじっとその文字たちを追う。今日は写真週刊誌の前で立ち止まったようだ。

『不倫の代償!』

『暴かれた本性!』

『おぞましい実態!』

自分が神だなんて妄想か、そうでなければとんだ僭称だ。聞き咎める人もいるだろうし、冷笑する人もいるだろう。馬鹿にする人だっているかもしれない。

でも、そんなものを気にするような彼でもないのである。強い言葉を使えば同じくらい強いものが自分に返ってくる。正負を問わずだ。

だから、どんな形であれ誹謗中傷を撒き散らす人は、決して幸せにはなれない、と彼は断言する。人を傷つける方法ばかりがどんどん進化してしまっている、とも嘆いていた。

予言はしないのに断言はするんだね、と私がつっこむと、彼は少しだけ不機嫌そうにそっぽを向いた。

吉祥寺に向かうために明大前駅で井の頭線を待っていた。どこからかやってきた一羽のカラスがホームを我が物顔でてとてと歩いていた。

そいつはあまりにも堂々と歩くものだから、人々のほうがカラスを避けるようにして過ぎていく。ちょうど私たちの目の前に現れたそいつは、なぜかそこでぴたりと歩くのをやめた。

「このカラスは飛ばないんじゃなくて、もう飛べないんだ」

私が目をぱちくりさせている間にも、私たちをたくさんの人が追い越していく。乗り換えるはずだった吉祥寺駅行きの井の頭線列車がホームに入ってきても、私はカラスから目を離すことができなかった。

数分間はその場にいたと思う。人々は迷惑なものを見るような視線を私たちに投げつけては去っていった。

やがてカラスはゆっくりと、あらゆる不可逆を代弁するかのようにその身を横たえる。まもなく息を引き取ったのは私にもわかった。

彼は息を少し長く吐いてから、買ったばかりの写真週刊誌をかばんから取り出して広げると、私にそれを読むように言って押しつけてきた。

広げられたページの記事が売れっ子ミュージシャンの事務所独立騒動だったので、リアクションにとても困った。数行読んでも内容が全く入ってこない。

「あのさ、別に興味ない……」

言いかけて私は絶句した。彼が、死んだカラスのいたはずの場所に立っているのだ。仄かに厳かな表情をして、私に人差し指を向けている。

私は訝しげに首を傾げた。彼の指先を目で追うようにすると、やがてホームの屋根の隙間から覗く青空を見上げることとなった。

そこには電線が伝っていて、一羽の白鴉がとまっていた。私が「あっ」と声を出すより先に、その白鴉は天高く飛び立っていった。

私がぼうぜんとしていると、彼が「乗り遅れるよ」と急行列車の到着を報せた。

彼が本当に神でも、それはそれで悪くはないなと思った。