暇つぶし

僕はしげしげと目の前の少女を見た。少女は不機嫌そうに僕の視線を受け流している。

「邪魔じゃない?」

単刀直入に僕は言った。

「その羽。空気抵抗が」

少女はダンマリだ。

「不利だと思うんだ」

ショートカットヘアの少女は、ますます不機嫌そうに僕をチラッと見やった。

「背中の羽ってのはね、そもそも飛行用じゃない。落下の速度を緩和させる、まあパラシュートみたいなものだね。憧れが高い割に用途が少ないんだ」

少女は腕組みする。

「勝負を諦めるつもりかい?」

「バカみたい」

ようやく言葉を発したかと思えばこれである。

「きみならできるよ。その羽さえなければね」

「ふーん」

僕はやれやれ、とため息をついた。

ことの発端は、神のなかの神であるこの僕のちょっとしたしくじりだった。

人間界ではよく、スポーツの祭典が開かれる。オリンピック・パラリンピックのみならず、各種競技のワールドカップはほぼ毎年行われているし、学校では運動会は必ず重要イベントとされている。

児童生徒たちが汗を流しながら懸命に競技に励む姿を見せ、大人たちはそれに感動を覚えたり時に涙したりするのだ。

そこで戯れに神界で運動会を開こうと僕が考えたのが、そもそもの間違いだった。僕は神のなかの神なので、全知全能とされている。その僕がまさか競技に出て勝敗を競うわけにもいかない。しかし参加はしたい。そこで、僕の名代を務めるアルバイトを募集することにした。

各地から腕に覚えのある神々がやってきたのだが、面接でほとんどを弾いた。確かに有能な者ばかりだった。何トンものバーベルを片手であげてみせる者、風より早く走り抜ける者、ひらひら華麗な技を披露する者。どれも見事だった。そう、彼ら彼女らは有能すぎた。

僕が欲していたのは「スポーツを通じて成長する姿」だ。なので、すでに伸びしろのない者は断ることにした。

二次選考の面接で、事件は起きた。選考に勝利の女神、ニケを迎えることにした。彼女以上の適任者はいないと考えたからだ。

ところが、だ。なんとニケの机に置かれたネームプレートの表記が「ミケ」になっていた。気性の激しい彼女は案の定、激怒した。僕を問い詰めてきたので、僕は慌てて発注書を確認した。すると「N」とスペルされるべき部分が「M」になっていた。

もしかしなくてもこれは、僕が録画しておいた去年のM-1を見ながら発注をかけたせいだ。

ニケは怒り心頭で面接資料を床にぶちまけ、応募者たちの履歴書は無惨に散らばった。彼女の怒りは炎となり、落下した履歴書たちを燃やしてしまった。これではもう、選考どころではない。

ニケは僕に謝罪を求めてきた。だが僕のような立場が容易に頭を下げてしまうと、神界の秩序が乱れかねない。僕はとりあえずへらっと笑ってみせた。それがどうも、さらに彼女の逆鱗に触れてしまったようだ。

「名前とは存在そのもの。神のなかの神たる其方とはいえ、名前を汚した罪は重い」

「うーん」

「贖わぬというのなら、我と勝負をしてもらう」

「ほんと悪いとは思ってるんだけど、立場的に謝るってのが難しいってこと、理解してもらえないかな?」

「笑止! 我にもプライドがある。ここで引き下がっては勝利の女神の名がますます廃る!」

ということで、よりによって勝利の女神と勝負することになってしまった。そこで僕が白羽の矢を立てたのは、面接会場の机の上に唯一燃えずに残った、件の少女だった。

少女は顔写真以外、全く記入のない履歴書を送ってきた。どうやら知識も経験もないようである。なぜ応募してきたかと聞いたところ、一言、

「とにかく暇だったから」

と答えた。

ニケとの勝負はシンプルに、100メートル走一本勝負。号砲は僕が務めることになった。

そこで羽問題だ。羽がある分、空気抵抗で不利になりはしないかと僕は懸念しているのだが、何を言っても「別に」「知らない」「あっそ」くらいしか話してくれない。この少女は、まるで反抗期の女子だ。

やる気のなさはピカイチ。それでこそ、「スポーツを通じて成長」しがいのある逸材だと判断した。

短距離走はスタートが肝心だ。クラウチングスタートのポーズを少女にしてもらうのだが、羽のせいでうまくバランスが取れない。何度かトライして、少女は不満げな表情で練習をやめた。

「まあ、まだ勝負の日まで時間はあるから。せめてクラウチングからダッシュ姿勢になれるようにはしてね」

「……別に」

「だからさ、羽、邪魔じゃない? 勝負に勝ちたくないの? 勝たないとバイト代出せないよ」

「それは嫌」

最高かよ。このような存在こそ伸ばし甲斐があるというものだ。

「勝負はたったの一回きり。リスク要因は可能な限り排除すべきだと思うけど」

「知らない」

結局、少女と心の距離が全然縮められないまま、勝負の日を迎えてしまった。競技の会場となった神界スタジアムは、勝負の噂を聞きつけた観客でごった返していた。選考であえなく落とされた神々も、いったいどんな強者が採用されたのかと物見遊山的に押しかけていた。

トラックに最初に現れたのはニケ。深紅の流れる長髪を高い位置でポニーテールにして、スレンダーなボディーラインがくっきり出るウェアに身を包んでいる。

象徴的な彼女の羽が、空気抵抗を避けるためにしっかりと折りたたまれている。人間界のあまぞんという通販サイトで取り寄せたギブスの一種だ。

ニケが「いざ、勝負!」と高らかに告げると会場の歓声は最高潮となる。その声に全く圧されることなく、ワンピース姿の少女が姿を現したものだから、会場は一気にどよめいた。

「なんですって」

ニケの表情が硬くなる。

「こんな小娘が相手とはね。まあいい、我が本気を出さない理由にはならない」

少女は羽をつまらなそうに二、三度はためかせた。

「さっさと終わらせましょ」

「望むところよ」

少女とニケがそれぞれクラウチングの姿勢に入る。僕は内心ハラハラしながら、「オンユアマーク」と宣言した。

ニケが明らかに勝利を確信して、口角を上げたのが見えた。

「セット」

僕はどうにでもなれとばかりに号砲を鳴らした。

驚くべきことに、スタートは横並びだった。少女もニケも美しくスタートを切った。少女はいつの間に、クラウチングからのダッシュを習得したのだろう。

中盤で頭ひとつ抜きん出たのは、ニケだった。流麗なフォームで手足を運び、迷いや淀みが一切ないその走りは賞賛に値した。

ああこれは、僕がこの大観衆の前でニケに頭を下げることになるのだろう、と会場の誰もがニケの勝利を予感した瞬間、僕の視界に信じられないものが映った。ニケがゴールを割るより早く、少女の羽先が達していたのである。

肩で息をするニケに対し、少女は全力疾走のあとにも関わらずけろりとしていた。

「え、我が負けた?」

ニケが信じられないといった表情で少女を見やる。

「そうみたいね」

「……こんなことなら羽を畳むべきじゃなかった……『ぷらいむでー』だったからつい……」

僕は号砲のピストルを投げ捨てて少女に駆け寄った。固唾を飲んで観ていた観衆も、少女の快挙に割れんばかりの拍手や歓声を送った。

「そういえばきみ、名前をまだ聞いてなかったね。僕はゼウス。って、そんなん知ってるか、あはは」

すると少女はこちらをちらっと見て、ボソッと呟いた。

「……ス」

「えっ?」

「カオス。そう呼ばれてる」

そう言って、少女は初めて笑った。してやったと言わんばかりに、ニヤリと。