突如現れた少女は、伊織の携えていたエコバッグの中の菓子パンに興味を示した。
「おなか、すいてるの?」
エリーゼが問うと、少女はこくんと頷いた。
「だってさ。そのパン、くれない?」
遠慮というものをまるで知らないエリーゼに気圧されて、伊織はおずおずとエコバッグを渡した。菓子パンを手にした少女は「ありがと、いおり」と礼を述べた。
(……って、ええっ?)
「なんで、私の名前を?」
「その辺に落ちてた、原稿用紙の署名」
エリーゼが代わりに答える。
「とりあえず、その羽を返して」
「え、ああ」
伊織が持ちっぱなしだった羽をエリーゼに返すと、エリーゼはわざとらしく咳払いした。
「これは、神に仕える神官のみが所持を許される、ユグドラシルに棲まう聖なる鳥の羽で作られた神器なの」
「はい……?」
「ボールペン機能とシャーペン機能を切り替え可能で」
「はあ」
「インクはこすると、なんと消せる」
フリク◯ョンじゃん。
エリーゼは突然、およそ見た目に相応しくない厳かな口調になり、こう告げた。
「今日、今この瞬間から、この部屋を陽羽の座す神殿とする。神官である我、中野坂上・フルルクラン・エリーゼラフィムの名において、八島伊織の同居を許可するものとする」
「いや、許可もなにも、ここ私の家……」
「いおりーっ!」
「わわっ」
チョコクロワッサンを食べきった少女が、花の咲くようなとびきりの笑顔で、勢いよく伊織に抱きついてきた。
「パン、おいしかった!」
「え、ああ、それは良かった」
「わたし、陽羽。これからよろしくね!」
「喜べ、伊織。陽羽はこの部屋とあんたを気に入ったみたいだ」
だから、なんで上から目線。
陽羽と名乗った少女は、伊織に屈託のない笑顔を向けている。伊織は、状況こそ飲み込めなかったが、ただ純粋に、陽羽をかわいいと思った。なので、ぎこちなくではあったが、伊織も微笑み返した。
三人で暮らすには狭すぎる、1DKのアパートは、まさにこの瞬間を経て、陽羽の住居——すなわち、「神殿」となったのだった。
……という、夢を見た、というわけでもなさそうなのは、目が覚めてすぐにわかった。深夜のアルバイトから帰ってきて、疲労から幻に遭遇したわけでもなかった。
伊織が寝ぼけまなこをこする。折りたたみテーブルの上が片付けられていて、三名分の皿が置いてあった。目玉焼きにウインナー、それと少ししなびた赤いパプリカの浅漬けピクルス。トースターはないから、オーブンレンジで焼いたと思われる、いつ冷凍したかも覚えていない食パン、マグカップには、とき卵のコンソメスープ。
なんという、THE・朝食だろう。はっとして見上げれば、エリーゼが得意げな表情でこちらを見ている。
「なかなかのもんでしょ」
「はい」
伊織は、首肯せずにはいられない。素材こそ冷蔵庫の整理レベルだが、出来上がった食事はまるで、高級ホテルのブレックファーストだ。
私が朝食に見とれていると、エリーゼの後ろから、陽羽がひょこっと顔を出した。
「ウインナーは、わたしが焼いたんだよ」
「あ、おはようございます」
「おはよう、いおり!」
そういえば、いつぶりだろう。「おはよう」なんて、誰かとあいさつを交わすなんて。この頃はいつも、「お疲れ様です」ばかり口にしている気がした。
三名で囲む食卓。もとが独居用なので、もちろん狭い。それでも、不思議と不快な気分にはならなかった。
奇妙な同居生活が、こうして始まったのだった。