伊織が暮らすのは一人暮らし用のアパートなので、この同居が大家さんにばれたら追い出されるかもしれない、という危惧があった。
朝、ゴミ出しに行くときもエリーゼは、バリバリのパンクスタイルにピンクヘアをばっちりきめるものだから、目立つなというほうが難しかった。
「あいさつ? しといたよ」
あっけらかんとエリーゼが言う。聞けば、ゴミ置き場を掃除していた大家の遠藤洋子さん(73歳のお姉さま)が、
「あなた、とても素敵なファッションね」
と声をかけてきたのだという。自分も若いころはいろいろなファッションにチャレンジしたこと、若いうちはもちろん、誰でもいくつになってもオシャレは心の鏡だという大家さんの言葉に、いたく感銘を受けたエリーゼは、遠藤さんと意気投合し、今度飲みに行く約束もしたとのことだった。
「伊織の部屋は神殿になったっていったら、『近いうちにお供え物をもっていかなきゃね』って言ってた」
「そうですか……」
世の中、案外優しくできているのかもしれない。
陽羽が散歩に行きたいという。この日、外は晴天、初夏のそよ風が気持ちのいい気候だ。エリーゼが、夕飯の買い出しのついでにどうかと提案したが、陽羽は、
「いおりとがいい」
といってきかなかった。主柱あるじの言葉は、神官にとっては絶対だ。エリーゼは、テーブルに向って難しい顔をしていた伊織に声をかけた。
「伊織、陽羽の散歩につきあってくれない? 私はスーパーに行ってくる」
伊織は、うーんと言いながら背伸びをし、テーブルの上に広げていた原稿用紙をくしゃくしゃに丸めた。
「いいですよ。ちょっと行き詰ってたんで」
「いおり、わたし公園に行きたい」
「うん、行きましょう」
伊織の家からほど近い公園には、鉄錆のにおいのするブランコに回転ジャングルジム、すべり台が設置されており、幼児や児童たちがめいめいに遊んでいた。
陽羽はベンチに腰掛けると、その様子を楽しげに眺めはじめた。
「公園って、いいよね。みんな楽しそうで」
「陽羽は、遊ばないんですか?」
「わたしは、ここがいい。人間たちの笑顔を見守れるから」
伊織は、思わず息をのんだ。それから、自宅から持ってきたペットボトルのお茶のふたを開け、一口飲んでから言った。
「陽羽は、本当に神さまなんですか」
「うん」
「そうですか……」
もう一本のペットボトルを渡すと、陽羽はおいしそうにゴクゴクと飲んだ。
「ぷはー」
「『ぷはー』って声に出す人、はじめて聞きました」
「『人』じゃないけどね」
「あ、そっか」
あはは、と笑う伊織の顔を、陽羽はひょこっと覗き込むようにして見てきた。
「いおりの夢は、なに?」
「え?」
陽羽のロングヘアがそよ風に揺れる。唐突な陽羽の問いかけに、伊織はしばし面食らった。
「人間は、夢を持つことができるでしょう。それに向かって頑張ることも、悩むこともできる。それって、とても素敵なこと」
「そうですか」
「うん。教えてほしい、いおりの夢」
「私は……」
言いかけて、伊織は口をつぐんでしまう。
「どうしたの?」
無邪気な陽羽の笑顔は、いつも伊織を慰めてくれるけれど、今回ばかりはそれがやけに眩しく感じられた。
「夢」
伊織は独り言のようにこぼす。そうして肩を揺らすように、大きくため息をついた。公園には、はしゃぐ子どもたちの声が響いている。
「あ、そうだ」
伊織はスマートフォンを取り出し、収められたアルバイトのシフト表を確認した。
「今日、夜7時から11時半までバイトです。帰りは遅くなるから、エリーゼと先におやすみください」
「はーい」
伊織は、最寄り駅の商店街にある個人経営のコンビニエンスストアでアルバイトをしている。コンビニエンスストアといっても24時間営業ではなく、夜10時半で閉店する小さな店舗である。伊織が深夜帯にシフトを入れているのは、そのほうが時給がいいからだ。
この日最後の客のレジ打ちをしながら、伊織は頭の片隅で考えていた。
(夢、か……)