季節は夏へとまっすぐに向かっているようで、日照時間も日に日に延びていっている。初夏の新緑が徐々に濃さを増し、力強い季節へと成長しているかのようだった。
晴れたら、窓を全開にして風を入れる。まだエアコンを稼働させなくてもしのげる気候だ。ちょうど筆が乗ってきたところで、万年筆のインクが切れてしまった。伊織は「あー」と呟くと、途中まで執筆していた原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてしまった。
「ねえ、いおり」
伊織の様子をパピコを食べながら見ていた陽羽が、首を大きく傾げた。
「どうしていおりは、いまどき手書きで原稿を書いているの?」
陽羽にはずっと、そのことが疑問だった。スピード重視、合理性優先の現代社会で、なぜ伊織は万年筆の手書きで、原稿を書いているのかが。
「えっと、話せば長くなりますが」
「じゃあ端的に」
「はあ」
伊織はクッションに座ったまま、ごみ箱に狙いを定めて丸めた原稿用紙を放り投げた。見事、スローイング成功。
「祖母の影響です。私、両親が海外で仕事してて。だから祖母に育てられたんですね。祖母は自宅で書道教室を開いていて、ペン字も教えていました。近所の子どもたちがたくさん習いに来てて、賑やかでした」
「ふうん」
「私はよく、両親に手紙を書きました。祖母に手ほどきを受けて、小学生のころから万年筆で。最初は難しく感じたけど、今ではこっちのほうが捗るんです」
「なるほど」
「手書きって、とてもいいです。伝わるんですよ、文字以上のことやものが。それを感じたのは、父や母がくれた返信でした。忙しかったんでしょうけど、こちらがどんなに手書きで手紙を送っても、メールで返信が来るんですね。言葉を贈ってくれたと理解していましたし、いろんな事情もあったんでしょうが、正直、寂しかったなと」
「そっか」
「すみません、話しすぎちゃいました」
陽羽は、パピコの片割れを伊織に差し出した。
「うまく言えないけど、わたし、いおりの書く文章とか、すきだよ」
「ありがとうございます。まあ、原稿用紙に手書きしてから結局、パソコンに打ち直すから、二度手間っちゃ二度手間なんですけどね。それに、いまだにどの公募もなしのつぶてです。コンビニのバイトがなかったら、生活はどうなっていたことか。うん、才能が無いのかな、私。あはは……」
「いおり」
「はい」
「すきなことは、続けたほうがいいよ」
「はい」
陽羽と伊織が並んでパピコを食べていると、アパートのドアがノックされた。エリーゼが買い物から帰ってきたわけではなさそうだ。彼女はノックをしない。
「はい、どちらさま?」
伊織がドアを開けると、そこにはこのアパートの大家である遠藤洋子さんが立っていた。
「あ、どうも」
「八島さん、こんにちは。もう『こんばんは』かしらね。日が長くなったわねー」
「ええ、過ごしやすくていいですね」
「これ、よかったらみんなで食べて」
遠藤さんが持ってきたのは、弁当箱ほどの大きさのタッパーだった。
「シーフードミックスとブロッコリーのアヒージョ。フライパンで弱火で温めなおしてね」
「すごくおいしそう……!」
「ありがとう! えんどーさん」
横から陽羽がひょっこり顔を出して礼を述べた。遠藤さんは孫のように陽羽をかわいがっている。
「陽羽ちゃん、アサリも入っているけど、スキキライしちゃだめよ」
「はぁい」
「アヒージョって、自宅で作れるんですね」
「具材の下ごしらえが肝心よ。でも、フライパン一つででできるの」
伊織が感心していると、そこへぱんぱんに膨れたエコバッグを携えたエリーゼが帰ってきた。
「あ、洋子さん」
「エリーゼさん、お帰りなさい。白ワインによく合う差し入れをしたからね、おいしく食べてね」
「ありがとうございます~!」
その晩は、遠藤さんのアヒージョをメインディッシュに、エリーゼがもう一品、タパスとしてにんじんサラダを作ってくれた。神さま、神官、人間の三名で囲む食卓。ちょっとテーブルは狭いけれど、何気ない、こういう日がずっと続けばいいな、と、伊織は心の内で思っていた。