その日、夕方から駅前の大きめの公園で夏祭りが開かれるという。当然、陽羽は「いおりと行く」と言ってきかなかった。エリーゼはカバンから財布を取り出し、千円札を伊織に手渡した。
「買い食いは、この範囲でお願いね」
「ヨーヨー釣りは? 金魚すくいは?」
せがむような表情の陽羽に対し、エリーゼは首をぶんぶんと横に振った。
「含むわよ」
「ええー」
「陽羽、エリーゼ。私、少しなら出せますけど」
そう言って伊織は自分の財布から五百円玉を取り出した。
「本当に少しですが……ヨーヨー釣りか金魚すくいの足しにはなるかと」
「わーい! いおり、ありがとう!」
エリーゼは渋い表情をしたが、「まあ、楽しんできなよね」と言ってくれた。
盛夏の街に、ミンミンゼミとアブラゼミ、最近この地域でも聞くようになったクマゼミの大合唱が響く。夕方から夏祭りに向かうであろう浴衣姿の子どもたち何組かに、のんびりと歩いていた伊織と陽羽は追い抜かされた。
「陽羽は、お祭りが好きですか」
何気なく、伊織は陽羽に問いかけた。
「好きっていうか、ホームって感じがするんだよね」
「ホーム?」
「お祭りはもともと、人間が神に祈りを捧げる行事だから。まあ、今はどちらかというと地域のイベントって感じだけど、それでも嬉しいんだよね」
「嬉しい、とは?」
「たまにみんなに、思い出してもらえてるみたいで」
「そう、ですか……」
ヨーヨー釣りに苦戦したり、チョコバナナを美味しそうに頬張る陽羽の姿を、伊織は微笑ましく見ていた。ふと、思う。この子、いやこの神さまのことを、いまここに集っている人びとはどう思っているんだろう、と。
いや、そもそも陽羽が神さまだなんて知らないし、どちらかというと、人々は祈りを捧げるというより露店や花火を楽しんでいるので、神さまに対する畏敬、なんて意味合いは、今どきの夏祭りでは薄いのかもしれないけれど。
時間になって、花火が打ち上げられることになった。公園の広場に、黒山の人だかりができる。陽羽は伊織の手をぎゅっと握って、嬉しそうにぴょんぴょんとその場で跳ねた。
「すごいねぇ。いろんな形があるんだね」
「はい。星型やハート形の花火も、たまにあがりますよ」
「そうなんだ!」
無邪気な陽羽の表情に、伊織はどこか安堵を覚えていた。
夏が徐々にその色彩を秋に変えていく頃になって、一通のメールが伊織のもとに届いた。海外にいる、両親からであった。
そういえば、この不思議な同居生活のことを伊織は両親に伝えていない。近況報告も含めてまた手紙を書こうと思い、メールを開封した。
伊織は壁のカレンダーを見上げた。8月が尽きようとしている。日々にかまけて忘れた、ふりをしていた。祖母の命日は二週間後だ。夏と一緒に、祖母は逝ってしまった。大切なことものを、たくさん教えてくれた人だった。
母は、そのタイミングで一緒に海外で暮らさないか、と提案してくれた。けれど、祖母と暮らしたこの国からはどうしても離れがたく、自分の夢もあったことからそれを断った。後悔はないが、これでよかったのかという自問は、いまだに伊織の胸の中にくすぶっている。
伊織は万年筆を取り出して、便せんを広げた。
「VIA AIR MAIL」と明記し、必要分の切手を貼ってポストへと向かう。ちょうど、井戸端ミーティングに花を咲かせていたエリーゼと遠藤さんに会った。
「あら、おでかけ?」
「そこのポストまで」
メールで返せば切手代もかからないし、すぐに相手に内容が伝えられるのはわかっている。けれど、メールでは伝わらないものを、伊織は伝えているのだ。ポストに手紙を投函すると、伊織はふっと息を軽く吐いた。