「いおり、すきなことは、続けたほうがいいよ」
「陽羽、どうしたんですか」
「すき、な、ことは、つづけ、たほう、が――」
やがて陽羽は口をぱくぱくとさせて、そのまま黙ってしまった。
「エリーゼ、何があったんですか」
伊織の問いかけに、しかしエリーゼは答えない。遠藤さんが、温めたタオルで陽羽の頬を拭いてやると、「可哀想に」と言った。
「陽羽ちゃんは、あなたを捜そうとして、2階の外階段から落ちたの」
「えっ!?」
「伊織さんが買い物から帰ってこないって、陽羽ちゃん泣いてたわ」
「そんな……」
「こんな夜遅くに、どこへ行っていたの」
「……ごめんなさい。遠藤さん」
「謝るなら、陽羽ちゃんにしてくださいな」
「陽羽、ごめんなさい」
陽羽は、挙動を停止したままだ。いつの間にか、夜風にほんの少し涼しさが混ざるようになっている。夏が、この街から過ぎ去ろうとしていた。
陽羽を布団に寝かせると、エリーゼはテーブルに頬杖をついて、ため息をついた。
遠藤さんは、陽羽やエリーゼの抱く深い事情は知らない。それでも、大切な理解者として存在してくれている。そのことが、今の伊織たちにとって、心の支柱のようでもあった。
「おやすみなさい。二人とも、ううん、三人とも、ちゃんとしっかり休むのよ」
「ありがとう、遠藤さん」
遠藤さんが去ると、エリーゼは力なくうな垂れた。
「もう寝るわ。とんだ夜更かしになっちゃった」
「……はい」
それからエリーゼと伊織は一言も交わさずに、順番にシャワーを浴びて床に就いた。伊織は、いつものように狭い空間に3つ並んだ布団から離れて、薄がけだけを体に巻きつけると、壁際に体を押しやって、朝が来るまで心の中で何度も、「陽羽、ごめんなさい」と呟いていた。
伊織が次に目を覚ましたのは、正午をとうに過ぎた頃だった。焦げたケチャップの匂いで目を覚ましたのだが、そこにはいつも通り、どこか不機嫌そうにフライパンを握るエリーゼの姿があった。
「あら、おそよう」
小さなテーブルの上には、チキンライス入りのオムライスが置かれていた。伊織が寝ぼけまなこをこすると、ぼやけた視界の先にまだ、陽羽は静かに眠っている。
「病院とか……」
エリーゼはむくれたまま、首を横に振った。
「意味ない」
「……はい」
「陽羽の構成プログラムの、どこかが故障した。直す方法は、悔しいけど、ただの神官――私風情には、わからない」
「そんな……」
それから、目を覚まさない陽羽のために、伊織とエリーゼは努めて、いつも通りに振る舞った。遠藤さんもまた、今や親友であるエリーゼを気遣って、日本酒やおつまみを毎日のように差し入れてくれた。
それから、何枚カレンダーをめくっただろう。季節は晩秋になり、吐く息がすっかり白むようになった頃のことだ。アルバイト先から帰ってきた伊織がアパートのポストを開けると、一通の封書が届いていた。
「国際郵便……?」
差出人の欄には、筆記体で「Project Paracelsus」と書かれていた。